小原啓渡執筆集「諸行無常日記」
2008.02.07
感情
「か」、ちょっと難解ですが、今回は「感情」
僕は学者ではないし、アートに関すること以外は専門家でもないので、学術的に間違ったことを書いてしまう場合もあるかと思いますが(このブログ全般を通して)あくまで、個人的な解釈および考えとして受け取ってもらえるとありがたいです。
と、一応断っておいて、「感情」ですね。
基本的に、様々な「感情」は、無意識に起こってきます。
もちろん、俳優が感情移入によって、涙を流すことができるように、誰しもある程度は、意識的に怒ったり、笑ったりすることは可能ですが、多くの場合、出来事に対する「反応」として、まず、瞬間的な「感情」があり、次に「思考」、「行為」へとつながっていくのが一般的だと思います。
実際は、「感情」から「思考」をすっ飛ばして「行為」に及ぶ場合(キレた?)もありますし、身体反応(反射神経?)として「出来事」から「行為」が直接引き出される場合もありますが、通常は「出来事」?「感情」?「思考」?「行為」という流れを踏むと思います。
概して、感情が起こったとき、人はその感情を引き起こした出来事もしくは対象に意識を向けます。(自分にではなく・・・)
例えば、人から何かを言われて気分を害した時、その言葉、もしくはその言葉を発した人物に意識を奪われ、その対象物のことを考えます。
「ほんとは、どういう意味なんだろう?」
「なんであんなこと言うんだろう?」
「あの人は僕を嫌っているんだろうか?」などなど・・・
そして、しばらくたって、自分に意識が戻ってきます。
「自分にもいけないところがあったのかもしれない」
「自分の態度が原因かもしれない」
「これから、どうしよう」などなど・・・
僕の場合も、多かれ少なかれこんな感じですが、少しづつ変わってきていることがあります。
それは、感情が芽生えた瞬間に、対象物にではなく、自分に、あるいは「感情」自体に意識を向けるという反応です。
まず、湧き起った感情を、ただ眺めます。
「眺める」というのは、感情を言葉にしない、カテゴライズしない状態です。
言葉にしない、カテゴライズしないというのは、例えば、「怒り」であるとか「嫉妬」であるとか、「恋」であるとか、「同情」などといった一般概念の枠にはめない、ということです。
分類できない「ただ一つのもの」としてその感情を見るということです。
そして、意識と興味を対象物にではなく、自分に向けて「思考」します。
「この感情と似た感情を以前に味わったことがなかっただろうか?」
「なぜこんな感情が芽生えるのだろうか?」
「こういう感情を持つ自分がどうして創られたのだろうか?」などなど・・・
つまり、僕にとって自然に湧き上がってくる「感情」は、自分を知るための非常に有効な糸口であるということです。
こういうと、とても「分別のある、冷静な人」と思われるかもしれませんが、時には、感情から行為へ一直線の場合もありますし、対象にばかり気を取られてしまうことも往々にしてあります。
ただ、そういった場合でも、必ず「自分を知るための大切なチャンス」として「感情」を振り返るようにしています。
そういった意味で、僕にとって、「美しい」とか「うれしい」とか「楽しい」といった感情も、
「きたない」とか「悲しい」とか「苦しい」といった感情も同じ価値を持つということになります。
そして、この「心の揺れ」「刺激」「感情の動き」こそが、僕にとっての「感動」です。
だからこそ、負の感情も含め、
こうした「感動」を与えてくれる全てのものに、同等に感謝できる人間でありたいと思っています。
すべては「自分とは何者なのか」を知るために。
小原啓渡