小原啓渡執筆集「諸行無常日記」

2008.08.17

愛ー2

今日から6周目、「あ」は「愛」に関しての考察を続けてみるつもりなので、前回に引き続き2編目、「愛ー2」で。

「愛」は抽象的な概念ですが、もし、それが具象であると仮定した場合、その見え方、表出のされ方というのはどんな感じだろうと考えてみました。

かなり強引で難解な自問自答ですが、僕が出した結論は、「美」でした。

本質的に僕が「愛」の存在を感じる、もの、行為、思想などに共通するものは「美」です。

例えば「自然」、ありのままの自然というのは全く過不足がなく、調和が取れていて、完璧に美しい。自我を超越した行為、思想も美しいと思います。

もちろん、何を「美しい」と感じるかは人によって多少なりとも違いがあるとしても、水平線に沈んでいく夕陽を見て、「醜悪で見苦しい」と思う人はいないでしょう。

人は美しいものに触れたとき、生きている実感と共に生きるエネルギーを得ます。本質的な美に興味を持ち、探究し、美と共に生きようとする人は、どこか生き生きとしています。
それに引き替え、醜悪なものは人の平安を乱し、エネルギーを奪い取っていきます。

そこに愛があるのかどうか、「美」はその判断基準としてかなり有効であると思っています。

ただ、完璧な「自然」に対し、人間の行為や思想に関する「美」が曖昧で微妙なのは、完璧な人間などいないからでしょう。

キリストやブッダ、あるいは天才と言われる人達はある意味、ある部分で完璧なものを備えていたのかもしれませんが、大部分の人間は未熟で、悟り切っている人などいません。

ただ、「美」を追求しようとストラグルしている人と、全く本質的な「美」に対する認識がない人との違いは大きいと思います。
言葉を変えるなら、理屈抜きで「生きる上での美学」を持っているかどうかが大切な気がします。

僕は、自分を消耗させるもの、平穏を乱すものに本質的な愛はないと思っていますが、大部分の人は「愛」を一般的な「恋愛」の一部だと捉えていて、自我にまみれた「恋愛」にエネルギーを奪い取られ、それを「愛」だと錯覚しているふしがあるのも否めません。

つまり、そこから逸脱しない限り、本質的な「愛」を認識することはできないだろうし、「美」の本質を見極めることもできないのではないかと思うのです。

自分自身に関していうなら、まだまだ未熟さを実感する毎日ですが、少なくとも自我と戦う気持ち、本質を見極めたいという思いだけは強靭だと思っています。

そして、美を探究し続ける日々の中で自らの美学を確立し、いつか、本質的な「愛」の認識に到りたいと心から願っています。

小原啓渡

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