小原啓渡執筆集「諸行無常日記」
2008.10.15
完璧
「か」、「完璧」で。
「完璧」あるいは「完璧主義」という言葉で思い出すのは、かなり前、偶然にテレビで見た日本画の巨匠「奥村土牛」の晩年を追ったドキュメンタリーです。
胡粉などを何度も何度も(100回とも200回ともいわれる)重ね塗りし、非常に微妙な色を出すことに成功した作品が特徴とされる奥村土牛は1990年に101歳で亡くなっていますが、そのドキュメンタリーは確か90歳を過ぎた頃の彼を撮った作品だったように記憶しています。
その番組の中で、「最近少し絵のことが分かってきたような気がします」と話している奥村土牛の顔を見て、僕は思わず息をのみました。
著名人にありがちな「白々しい謙遜」の影など一切ない、ひたむきで強靭で、純粋無垢な瞳の輝きに釘付けになりました。
アート(人間が創り出すもの)に「完璧」などあり得ないことは分かっているつもりでしたが、奥村土牛の瞳には、そんな僕の浅い理解を一瞬にしてひっくり返し、空っぽにしてからもう一度ひっくり返すような衝撃と深みがありました。
そして、「完璧」を求めて一歩づつ歩んで来られたのだろう彼の生きざまに、僕は本質的な「完璧なるもの」の姿を見たような気がしました。
それ以来、日本画に関する知識がほとんど無い僕ですが、奥村土牛の作品に出会うたびに彼の言葉を思い出し、じっくり時間をかけて鑑賞するようになっています。
「土牛」という名が、中国の詩、「土牛石田を耕す」から引用されたことを知った時の感慨も、その時見た富士の絵とともに僕の記憶に鮮明に残っています。
小原啓渡