小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2008.09.23
ベレー帽
「へ」、「ベレー帽」で。
僕の幼少期の育ての親は、僕とは血のつながりのない老夫婦で(以前にも少し書きましたね)、おじいちゃんの方はいつも黒のシンプルな「ベレー帽」をかぶっていました。
今から考えると、ベレー帽に煙管がトレードマークのような人でしたから、見た目はとても芸術家っぽかったように思います。
僕が幼稚園の時、参観日があって、実の母がやってきたようです。(僕は憶えていません)
ちょうどその時、「両親どちらかの顔」というお題目で、園児たちの絵が教室の後ろに張ってあったそうです。
園児たちが描く絵ですから、それほどリアルなものはなく、どれも似たような絵で「言われてみれば、○○君のお父さんね」程度なのですが、僕の描いたお父さんは明らかにわかる黒の「ベレー帽」をかぶっていたそうです。
「悪気がないだけに、本当につらかった」と、後に母が話してくれました・・・。
小原啓渡
2008.09.22
不惑
「ふ」、「不惑」で。
「吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)。六十にして耳順(したが)い(耳順)、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず(従心)」
孔子の論語にある有名な一節です。
「四十にして惑わず(不惑)」を、ずっと「迷いがない」という意味だと思っていましたが、どうやら、「小さな枠に囚われず自由でいること」というのが本来の意味のようです。
自分が四十を過ぎて、迷いがないかと問われると困りますが、小さな枠にとらわれず自由かと聞かれれば、迷いなく「ハイ!」と答えることができそうです。
それが僕の唯一の取り柄かもしれません。
それでは、これから迎える「知命」「耳順」は何となく理解はできますが、「七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」というのは、意味さえもが難解で(この解説だけで一冊の本が書けるかもしれません)、ある意味で悟りの境地に近いものだろうと考えると、到達するのはかなり難しそうです。
孔子が73歳で亡くなっていることから、八十にして・・・というのがないことに納得がいきますが、今の時代80歳を超えた方などざらにおられます。
もし、孔子に続けて、おこがましくも僕が付け加えるなら、
「八十にして、幼児に帰る(帰児)」
「九十にして、無に到る(到無)」 とか如何でしょう?
1歳から5歳くらいまでの幼児、この時期の人間が僕はもっとも活力にあふれていて、純粋で、美しいと思うのです。
そして、死を前に究極の「無」に到る。
小原啓渡
2008.09.21
貧困
「ひ」、「貧困」で。
田舎での子供時代は別にして、僕の「貧困時代」はインドから帰国してからの数年でしょうか。
出国前にすべての所持品を処分してしまっていたので、お金はもちろん住むところもない状態。
出国の時、蒲団を引きとってもらったバイト先のジャズ喫茶のママのアパートに、その蒲団を言い訳に転がり込んで、一部屋を貸してもらい、その代わりにお店で働いていました。
その後、昼間に瓦屋のバイトを始めて、少しお金を貯めて、敷金礼金なし月7千円、4畳のぼろアパートを見つけてやっと自立、「比叡荘」という木造2階建て、共同の炊事場とぼっちゃんトイレの崩れかけのアパートでした。
廊下をはさんで一階と2階に8部屋づつありましたが、入居しているのは2階に一人だけ。僕が二人目の入居者でした。
ここでの生活が約3年間、極貧でしたが、どう思いだそうとしても「貧困」であることを悲しいと思ったことも、みじめだと思ったこともないんです。
その前にインドで普通の人と同じレベルで生活していたためか、若かったためか、楽しい思い出しかない。
「比叡荘」という看板を勝手に「ビラ・比叡」という看板に作り変えて住所まで変えてしまったのも、虚栄心からではなく、お遊びでしたし、「ビラ・比叡」と変えたために友達が何人も引っ越してきて賑やかな合宿状態になったのも楽しい経験でした。
「貧乏自慢」をするつもりはないので、その頃の貧困状態をつらつら書くことはしませんが、「こんな生活、そうそう出来るもんじゃない」と逆に満喫していたことは事実です。
ずっと貧困だとは全く思っていなかったので(何の確証もなく・・)、今しかできないだろう経験をしっかりしておこうというような、妙な余裕がありました。
なんと、そんな状態の時に結婚もしましたし、その頃の同居人や友達とは今も親しく付き合っています。
「貧困」から抜け出す方法は、「貧困」を一時的なものだと信じて、楽しく明るく生きることなんじゃないかと僕は思うのですが・・・、甘いですかね?
小原啓渡
2008.09.20
博打(ばくち)
「は」、「博打(ばくち)」で。
「ギャンブル」という方が一般的ですね。
競馬や競輪、競艇などは公営ギャンブル、カジノは日本ではまだ協議中で、パチンコやマージャンは微妙というところでしょうか。
株や最近流行りのFXなどの投資も「ギャンブル性」がありますが、考えてみると、結婚相手を決めるのも、就職する会社を決めるのもある意味でギャンブル的なところがありますよね。
人生は「選択」の連続で、結果の見えないものを「選択」することが「ギャンブル」であるとするなら、人生は多かれ少なかれ「ギャンブル」なのかもしれません。
そんな人生のギャンブル性を楽しんでいるからでしょうか、僕は一般的なギャンブルに興味がありません。
一応、一通りのものは経験してきましたが、はまり込んだこともなければ、はまり込みそうになったこともない。
ルールや仕組み、何がおもしろいのか、なぜギャンブルにのめり込む人がいるのか、ギャンブルにのめり込む人というのはどういう性質を持っているのかなどを自分なりに探り出してしまえば、もうそれでおしまい。
それ以上、時間もお金も使う気が起こらなくなります。
どうせなら、人生というギャンブル、仕事というギャンブルにすべてをつぎ込みたいと思っています。
小原啓渡
2008.09.19
ノマド
「の」、「ノマド」で。
フランスのシャルトル、スペインのマドリッド、サラゴザ、ビルバオとまわってきました。
この報告は追々するとして、帰国して最初に感じたのが、日本の湿気でした。
特にこの時期、ヨーロッパと比べて日本の湿度は異様に高い。
そこで「ノマド」、遊牧民はあてどもなく移動しながら生活をしているように思えますが、季節ごと(主に夏と冬)にある程度定まったルートで、ほぼ決まった場所を巡回してる場合がほとんどなのだそうです。
人類の二大生活類型、定住型と移動型を考えると、僕はご多分にもれず定住型ですが、精神的には移動型、「ノマド」に憧れます。(言葉の響きもいい)
知らない土地を旅していると、「今」が際立ってきて、感覚を総動員して、状況に応えているのがわかります。
過去や未来に対するつまらないこだわりが消えていって・・・、やはり「旅」は、いいですね。
「ノマド」は基本的に牧草のあるところを求めて移動しますが、僕が移動するならその基準として「気候」は大きいだろうと思います。
歳をとっても日本人の肌がきれいなのは、高い湿度が影響していると言いますから、悪いことばかりではないないのでしょうが、どうも僕は日本の湿気が苦手です。
春は日本、夏はヨーロッパ、秋はカナダか北欧、冬はキューバかジャマイカ辺りに「ノマド」できれば最高だなぁと、ジェットラグでボケ気味の頭で幸せなことを考えています。
小原啓渡
2008.09.09
値段
「ね」、「値段」で。
値段をつけるという作業は、本当に難しいと思います。
経費がこれだけだから利益を乗せて売値はこれ、といった単純な話ではなく、「費用対価値」という問題もありますから、「値段」を決定するには非常に複雑な収支計算とマーケットに対する「読み」が必要になってきます。
「値ごろ感」という言葉がありますが、これを最大まで引き上げて「お得感」を消費者に提供する「薄利多売」といった方法論や、一品ものに高い付加価値をつけて利幅を増やす方法など、経済学的な視点はもちろん、消費者心理を読み解く心理学や投資などに関連する経営学に至るまで、適正な「値段」を決定するには様々な知識と情報が必要です。
特に一般的に広く流通している物品と異なり、ベンチャー企業の株価や私のフィールドであるアート作品となると、投機的な意図がはたらくことも多く、まさに混沌としてきます。
僕は経済学を専門的に勉強したわけではありませんが、実際に公演やイベントの価格を決定しなければならないことがあるので、ついつい深く考えてしまいます。
自分が値段をつけなければならない場合、つねに観客の立場に立った「値ごろ感」に敏感でなければならないと思っていて、
職業柄様々な公演の招待券をいただくことが多いのですが、基本的に入場料を払って見るようにしています。(特に収支が厳しいだろうと推測できる公演)
やはり身銭を切って見なければ、その値段に見合った価値があるかどうかの判断、つまり「値ごろ感」が鈍感になってしまうと思うからです。
消費者心理というのは、本当に微妙だと思います。
ほんの5パーセント値段を高く付けたがために全く売れなかった商品や、敢えて高く値段を設定したことでブランド力を高めた商品など、値段によって明暗が分かれた事例は星の数ほどあるにちがいありません。
いっそ「値段学・価格学」という学問ができてもいくらいだと僕は思うのですが・・・・。
小原啓渡
ちなみに、明日10日から18日まで、海外出張(スペイン)に出かけます。
そのため、ひょっとするとこのブログ1週間ばかりお休みになるかもしれません。
2008.09.08
ぬくもり
「ぬ」、ですね、「ぬ」で始まる言葉って少ないですよね。今回は、「ぬくもり」で。
確か尾崎豊の歌詞に、「100円玉で買えるぬくもり、熱い缶コーヒー握りしめ・・・」というのがありました。
この歌詞を聞いた時、尾崎豊の非凡さを感じ取ったことを憶えています。
孤独感や疎外感、冷え切った心が感じとる優しさなども含めて、「ぬくもり」はやはり肌寒い季節が似合う言葉かもしれません。
夏に熱い缶コーヒーを飲む人が少ないように、「ぬくもり」って、自分が元気な時には気付かないことが多い。それどころかウザく感じる時さえある。
さみしい時だけ、その存在に気づくものなのかもしれませんね。
毎日多くの人とお会いして話す機会が多い僕には、「さみしさ」を感じる隙間がないようなところもありますが、今では基本的に人間って孤独なものだという認識があるので、孤独にさいなまれるということは少なくなりました。
ただ、哲学者の「三木清」が自分の通っていた高校(兵庫県立龍野高校)の卒業生ということもあって読んだ「哲学ノート」には、「孤独は山にはなく、むしろ町にある」というようなことが書かれてあって、人の中で感じる孤独感についてずいぶん思い悩んだ時期もあります。
孤独は思索の源でもあるし、創造の大きなエネルギーともなります。
「100円で買えるぬくもり」さえ求めた尾崎豊の孤独感が、彼の創作の原点であったのかもしれません。
小原啓渡
2008.09.07
握り飯
「に」、「握り飯」
目の前に握り飯が山積みになっています。
この週末、名村造船所跡地(C.C.O)でのアートイベント「バクト大阪」に集まってくれたボランティアスタッフ用の夜食です。
この「握り飯」を握ったのもボランティアの人たち。
炊きたてのご飯を炊飯機からボールに移し、ふりかけをまぶして、ここからが僕の知らない方法で・・・、俄かに感心してしまいました。
ハンカチの大きさくらいにサランラップを切って、その上にご飯を乗せ、サランラップを包みながらおにぎりを三角に握っていく。
この方法だと素手で握らないので清潔だし、そのまま置いておけるから一石二鳥です。
「握り飯」を食って戦に出た武士の話をよく聞くからでしょうか、握り飯の山積みを見るとなんだか白熱した戦いの雰囲気を感じます。
確かにこの二日間(仕込みも含めると三日間)スタッフはほとんど寝ていない状態で、ボランティアの人たちもほぼ同じ。
今回も30人近いボランティアさんがお手伝いに来てくれましたが、本当にすごいというか、不思議な感じさえするのです。
まさに戦場のごとく「握り飯」を頬張りながら、黙々と作業を手伝ってくれるボランティアの人たち、手を抜いても、やらなくても、投げ出しても、誰も怒らないし、義務もない。
それなのに、笑顔で動いてくれる。
ニートだとか、フリーターだとか色々揶揄されることの多い若い世代も、自分の興味にヒットする仕事なら、自ら進んで汗を流す。
僕の価値観は彼らに近い。
実際のところ、もし彼らが集まってくれなかったら、今回のイベントも成立しなかったでしょう。
あと数時間、おかげさまで、無事に、予想以上の動員と最高レベルの盛り上がりを持って、「バクト大阪」を終了出来そうです。
このイベントのプロデューサーとして、一人の人間として、限界まで頑張ってくれたスタッフ、ボランティアの方々に心から感謝しています。
小原啓渡
2008.09.06
名村造船所跡地
「な」、「名村造船所跡地」で。
ちょうど今日、名村での自主イベント「バクト大阪」初日、色々ばたばたしているので、先日ある雑誌の原稿を依頼されて書いた原稿をそのまま。
「アートを切り口とした造船所跡地の活用」
大阪市西部を流れる木津川沿いは、大正時代から戦後の高度成長期にかけて西日本有数の造船地帯として栄えたが、1980年代に入ると韓国メーカーの台頭や船舶大型化などの波に押され、造船所は次々と撤退していき、現在は休眠した工場が数多く存在するエリアになっている。
このエリア内に位置する「名村造船所跡地」は、甲子園球場よりも一回り広い約4万2千平米の敷地を持ち、土地オーナーの千島土地株式会社から株式会社名村造船所に1931年より賃貸されていたが、長年に渡る造船不況の末、平成元年(1989年)に返還された。
その後、千島土地はヨットハーバーへの転用などを検討したが、地域一帯にかかる開発規制などもあり、建物の一部を音楽スタジオに改装(1993年)するにとどまり、その後、利用の目処が立たない状態が続いていた。
アートプロデュースを生業とする私が、2004年の春、千島土地の芝川能一社長のお誘いを受け、初めてこの地を訪れたのは夜であったが、2本の休眠ドック(200メートル級)、鉄骨造の工場家屋などが闇の中にぼんやりと浮かび上がる廃墟化した景観に大きな衝撃を受けた。
木津川を挟んだ対岸には、「ブラックレイン」(リドリー・スコット監督作品、1989年)のロケ地にもなった巨大な中山製鋼所が圧倒的な存在感を持って横たわっており、現在も稼働している高炉の煙突からは、時折激しく炎が立ち上っていた。
日常の生活圏から離れた臨海工業地域、人通りもない広々とした空間が醸し出すメタリックな雰囲気、塩の香りに乗って時折漂ってくる排煙のにおいなど、非日常な感覚が呼びさまされるのを感じ、一人のクリエーターとして、すっかりこの地に魅了されていた。
後日、日中に見学したいと申し出て、アクセスを確かめる意味で公共交通機関を使って再度この地を訪れた。
臨海部ということで、「南港」をイメージしていたが、地下鉄四つ橋線「北加賀屋駅」から徒歩で10分、南港に行くよりずいぶん近い。
土地と共に返還された工場棟の一つは音楽スタジオとして改装されていたが、ほとんど稼働していない状態、他の棟の4階には、かつて実寸大で船を製図していた無柱のドラフティングルーム(縦50m×横20m)が残っていた。
市の中心地では相当の資金がなければ確保できないであろう広大な空間、アーティストの感性を刺激し創造性を喚起させるであろう、時間の堆積を思わせる朽ちかけた建造物。
私は、近代産業遺産ともいえる「名村造船所跡地」を何とかアートを切り口に再生したいと思い、すぐさまオーナーである芝川社長に相談し、この地を30年間使用させていただく了解を得た。
2004年、この地で最初に行った催しは「NAMURA ART MEETING 04?34」、36時間連続で開催したアートイベント。
イベントのテーマは、「こんなに素晴らしい、可能性にあふれた場所が大阪に残っています、ぜひ一度見に来て、この場所を今後どのように活用していけばいいか、みなさんのご意見を聞かせて下さい」という問いかけだった。
結果的に数百人というアート関連あるいはアートに関心をもつ人々が集まり、この地の可能性を絶賛、これを機に本格的なアートスペース化計画「クリエイティブセンター大阪」が立ち上がることとなる。
このプロジェクトは、地域の活性化という目的も含んだ長期的な展望に立っているため、30年賃借というオーナーとの約束があらゆる活動のベースとなっている。
最終的には、これまでの価値観を見直し、新たな価値の創造を試みるという「アート」本来のコンセプトをベースに、「廃墟に眠るポテンシャル」ともいえる魅力的な空間と、それを存分に活用する創造性あふれる人のパワーが地域に影響を与え、街を活性化する事例となることを目指している。
現在、立ち上げから約4年が経過するが、メディアに取り上げられる機会が増え、ほぼ毎週末、音楽や様々なパフォーマンスのイベントが開催されるようになった。
ウィークデイにおいても、映画の撮影・けいこ場や工房としての利用が多く、そうしたアーティストの長期宿泊施設として、今年、古い木造旅館をリノベーションした「アーティスト・イン・レジデンス大阪」もオープンした。
「景観」という点において最近見られる面白い現象としては、年に何度もこの地で「コスプレ」イベントが開催されることだ。人気アニメのキャラクターに扮した100名ほどのコスプレーヤーが、互いに写真を取り合って交流するという催しだが、写真の背景に写りこむ無機質に廃墟化した工場群がいいのだと言う。
「廃墟萌え」「工場萌え」という嗜好に通じるトレンドと言えるだろう。
最後に、昨年こうした活動も評価され、経済産業省によって名村造船所跡地が「近代産業遺産群」に認定されたことを記しておきたい。
クリエイティブセンター大阪 プロデューサー 小原啓渡
2008.09.05
とんぼ
「と」、「とんぼ」
今日、久しぶりにトンボを見ました。
屋内に紛れ込んで、何度も何度もガラス窓に激突していました。
久しぶり、というのが何だか悲しい気がしました。
子供のころ、僕が育った田舎では、トンボも蝶々も蛍もカタツムリも身近なものでした。
十センチ以上の「鬼やんま」だって、普通に飛んでいて、鬼やんまは蚊を食べてくれるというので、捕まえては糸をつけて、何匹も部屋で放し飼い?にしていました。
秋口には「赤とんぼ」が乱舞して、それがごく普通の情景でした・・・。
他愛もないノスタルジーですね。
ただ、今の子供たちが大人になって、思い出の中で感傷に耽れるような情景が、はたして今の生活環境にあるのだろうかと考えると、ずいぶん少なくなっているような気がします。
(都会に住む子供の半数以上が、昇る朝日を見たことがないという記事を読んだことがあります)
「情緒」というのは、こうした自然の営みや景観から影響を受け、発達していく部分が多いことを考えると、「情緒不安定」な人間、「情緒」という感覚さえ知らない人間が増えていく可能性が強いと思っています。
「味気ない」だけでは済まされない「すさんだ」社会にしないためにも、子供たちに残していくべき大切なものとは何なのかを、今一度考えなおす必要があると思います。
小原啓渡