小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.09.04

手抜き

「て」、「手抜き」

どうも言葉が思い浮かばない日があります。
2,3思いついても、何となく気が乗らない日があります。

今日はそんな「手抜き」な日です。

体調が悪いわけでもなく、何かで落ち込んでいるわけでもない。

強いて言うなら、明日から週末にかけて、自分がプロデュースしているイベントが二つ重なっている。いわゆる責任にかかわるプレッシャーがあるのかもしれません。

ひとつは京都の「アートコンプレックス1928」での「クラフト・コンシェルジェ」に関連するイベント(数日前のブログで少し書きました)、あと一つがC.C.O(名村造船所跡地)での「バクト大阪」。

「バクト大阪」はBABY- Qの東野祥子と「なんか面白いことやろうよ」と今年からはじめた企画。
一応、今年1000人以上集客できたら、二年に一度続けていく予定のアートイベントです。

音楽、ダンス、美術、映画などアンダーグラウンド系のアーティスト数十組が一堂に会します。

雑誌「MEETS」に掲載してもらった記事をそのまま、

『1日目にはEYE、2日目には山本精一のPARAやOOIOO、あふりらんぽ・・・と、尖りに尖ったアーティストラインナップ。・・・だけじゃないのがこのイベントのすごいところ。BABY-Qのダンスパフォーマンスもあれば、「おそいひと」で衆目を集めた柴田剛の映画上映やライブペインティングなど、まさに多彩なアーティストが爆発! さらに、両日楽しめる前売り券が4000円という高コストパフォーマンス、これはかなりヤバイです。』 

詳しくは、以下のサイトへどうぞ!
http://www.bakuto-osaka.com/test0707/

小原啓渡

2008.09.03

ツァラトゥストラ

「つ」、「ツァラトゥストラ」で。

「ツァラテゥストラはかく語りき」は、ニーチェの代表的な著作です。

以前このブログでニーチェに関して書こうとしていますが、挫折しています。
(今回も尻切れトンボになる可能性は大です)

結局のところ、僕のとってニーチェは、解明し切れない宇宙のような存在ですから、ニーチェの研究をされている学者のように論じること自体おこがましいというか、単純に一ファンなのだと思います。(信奉者というほども理解できていないでしょう)

ニーチェが24歳にしてバーゼル大学の教授になった事実や、晩年の発狂を見るだけでもやはり天才だったのだろうとは思いますが、ファンとして最も憧れる部分というのは、「神は死んだ」(この神はキリスト教社会における真理や道徳だと思いますが・・)という有名な言葉に象徴される、強烈な「破壊者」の一面です。(その裏返しとしての偉大なる創造者の一面も含めて・・・)

彼の人生を通して繰り返される思想的、哲学的「破壊」と「創造」、この「ニヒリズム」にも通じる破壊的エネルギーと歴史的創造の爆発的な激しさが僕を惹きつけて離さない。

そしてこの無垢な生き方自体(ニーチェ自身)が「超人」であると僕は考えていて、この破壊と創造の永遠の繰り返しこそがまさに「永劫回帰」であると解釈しています。
(こんなに簡単に「超人思想」と「永劫回帰」を言いきってしまうと、学者の方々はお怒りになると思いますが、単に一ファンの見解だと思っていただけると有難い)

「ツァラトゥストラはかく語りき」は、彼の著作の中でも最も読み返した回数が多い作品です。

通して読んだのは一度だけで、後は断片的ですが、(元来、ストーリー重視の物語というより断章的な文体であるため、どのページを開いてもすぐに彼の思想の中に入っていける気がします)それ以前の「悲劇の誕生」や「悦ばしき知識」などからの思索の流れが読みとれ、この後に続く「善悪の彼岸」や「この人を見よ」、「権力への意思」{妹が編纂)へつながる思想の種が随所にばら撒かれているという意味において、最も重要な作品だと思います。

(尻切れとんぼを避けようとして、思いっきり言い切ってしまいました)

小原啓渡

2008.09.02

珍味

「ち」、「珍味」で。

「珍味」で思い浮かぶのが、「イカトンビ」、ご存じでしょうか?

イカの口(くちばし)の部分で、イカ一匹(一パイ)につき一つしかとれません。

生魚は苦手ですが、イカとタコは大好きなので、たまたま市場で見つけて買って帰り、食べてびっくり。
何とも言えない食感と味で、イカ好きの僕はすぐにハマってしまいました。

イカの歯というかクチバシというか、その部分が人の爪のように固く、それを手で剥ぎ取るように食べないといけないので、うまく食べるには少々コツが必要ですが、この「しゃぶりつく」感じも「食う」という原始的な感覚が呼びさまされて、なかなかグッドなのです。(お上品に食事をされたい方には不向きです)

家族の中でも、ちょっとお上品とは言い難い高校生の娘だけがこの「イカトンビ」にハマり、学校にまで持って行って友達に配っているようです。
意外にもこれが評判いいようで、「トンビ見つけたら買ってきてな」と催促されます。

今時の女子高生の味覚は、おやじ的なのかもしれません。

小原啓渡

2008.09.01

タフ

「た」、「タフ」で。

「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」
というのは、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説に出てくる探偵のセリフですが、何となく納得できなくて原文を調べてみると、
「If I wasn’t hard I wouldn’t be alive.If I couldn’t ever be gentle I wouldn’t deserve to be alive」でした。

ポイントは、hardを「タフ」、gentleを「優しさ」と訳したところにあると思います。

ただ僕が考えるに、英語にも「tough」という言葉はあるわけで、作者が「強靭」というニュアンスを伝えたければ、そのまま使えばいいし、「優しい」というのも例えば「tender」とか「sweet」とか「kind」とかある中で、なぜ「gentle」を使ったのかを本当に精査したのかどうかが疑問なわけです。

では、自分ならどう訳すか、
「情熱がなければ生きていけない、紳士でなければ生きていく資格がない」
 かな?(これでは、普及しないだろうと思いますが・・・)

僕の考える「hard」は「hard rain」などの「激しさ」のニュアンスで内面的描写、「gentle」は「gentle man」の「落ち着き」のニュアンスで外面的な描写ですね。

つまり、内には激しい情熱を秘めているけれど、外面的には礼儀正しく控え目で落ち着きがある、という感じでしょうか。

まあ、原文の主語は「私」なのに、一般的には「男」という受け取り方をされていることを考えると、このセリフが有名になった理由は、「タフ」で「優しい」という資質が理想の男性像にマッチしたからなんでしょう。

確かに、精神的にも肉体的にも「強靭」であることは男として魅力があると思います。
また、以前このブログで「優しさ」について書きましたが、「人を強くする優しさと、人を弱くする優しさ」という視点で考えると、タフな男でなければ「人を強くする本当の優しさ」を持つことはできないとも思います。

すぐに弱音を吐いて、女の前で泣き言をいうような軟い男に本当の「優しさ」なんてあるわけがない。

そう考えると、やはり、この訳者は偉かった、ということになるのでしょうか・・・。

小原啓渡

2008.08.31

掃除

「そ」、「掃除」で。

一年ほど前に「ダイソン」という会社のハンディー型掃除機を買って以来、ほぼ毎日掃除をするようになりました。

機能の原理は今一つ理解し切れていないのですが、一般的なフィルターを使わず、「サイクロン式」という方法で吸い取ったゴミを分離するので、目詰まりを起こさず、吸引力が落ちないのだそうです。

確かに吸引力は強いですし、デザインも良く、たまったゴミを捨てるのも簡単なので、掃除をするのが楽しくなります。

僕のは充電式でコードレス、だいたいフル充電して10分くらい使えます。
大きな家を掃除するには不十分でしょうが、6畳ほどの部屋ならちょうどいい。
逆に、充電が切れるまで掃除するというのが一つの目安になって、一度始めると10分は掃除するようになりました。

掃除機は、いわゆる掃除をするための「道具」ですが、この「道具」の良し悪しによって、目的の行為を好きになるか嫌いになるかが変わってくるという事をこのダイソンで実感しました。

やらた重くて取り回しにくい掃除機を使っていた頃は、その掃除機を見るだけで鬱陶しくなっていましたが、今では部屋がきれいになって爽快、というイメージで掃除機を見れるようになりました。

ダイソンは他の掃除機より多少値が張りますが、その差額を使用回数で割れば大した額にはなりません。

毎日使うものは、一年に何度かしか着ないブランド服よりも、お金をかける価値があるのではないかと僕は思います。

小原啓渡

2008.08.30

川柳

月末締め切りの仕事に追われています。
「せ」、「川柳」で。
ネットから面白いと思うものを10編拾ってみました。

妻だから運転できる火の車

イチローを越えたと二浪の息子言い

お若いと言われて若くはないと知る

質問もできないくらいわからない

年齢欄「青二才」だと書いておく

あの世からみれば死ぬ日は誕生日

思いやり思い上がりと紙一重

現代人暮らし昔のお殿様

湯の旅の疲れをいやす家の風呂

無料でも 家族間での 通話なし

「川柳」って、頭の体操としてもよさそうですね。

小原啓渡

2008.08.29

スキューバダイビング

今日は時間的余裕がありません。短く、「す」、「スキューバダイビング」で。

もう夏が過ぎようとしていますが、今年は「スキューバダイビング」どころか、一度も海に行けませんでした。

僕が持っているのは、所詮「オープンウォーター」のライセンス(簡単に言えば、十数メートルしか潜れない)なので、偉そうなことは言えませんが、かなり非日常な体験であることは確かです。

特に、透明度が高く、魚類の多いスポットでのダイブは最高です。
しかしよく考えてみると、シュノーケリングでもそれなりに海中は見れますし、最新の水族館などに行くと、巨大な「マンタ」や「ジンベイザメ」などをまるで自分が海の中にいるかのように観察することができるので、この部分におけるスキューバの特殊性は薄れます。

それでは何が特殊で、非日常かというと、
やなり、魚のように「水中で呼吸をしている」という事実でしょう。

この不思議な感覚は、スキューバ独特のものではないかと思います。

すべての生命は海で誕生し、進化してきたと言います。

そんな「母なる海」を体感したいなら、「スキューバダイビング」は最適で、日常では味わえない感覚を経験できるという意味でも貴重なスポーツ?だと思います。

小原啓渡

2008.08.28

修羅場

「し」、「修羅場」で。

どの程度の危機的状況を「修羅場」というのかは、当事者のとらえ方によって異なると思いますが、僕の場合、はたしてどれくらい「修羅場」を経験してきたのだろうと考えてみると、意外に少ないことに気づきました。

せいぜい、2、3回くらいでしょうか。

これらの経験を書き記せば、そこそこ面白い読み物になるのではないかとも思いますが、決して自慢できるような話でもないので、公表するとなるとやはり躊躇してしまいます。

ただ自分なりに「修羅場」を経験してきて思うのは、やはり、自分の「運の良さ」かもしれません。
(僕のことを昔から知っている友人は「悪運が強い」などと茶化しますが・・・)

今、生きていること自体「めっけもの」と言えないこともないし、いわゆる普通の生活を送れていることが不思議に思えることもあります。

自分の中に「無常観」や「まあ、何とかなるだろう」という「楽観主義」がしっかり根付いているのは、おそらく「修羅場」を何とかくぐり抜けてきた経験の賜物だろうと思います。

そして、少々のことなら「大したことない」と思えること、どちらかと言うと「怖いもの知らず」な傾向は、いい意味でも悪い意味でも、自分の生き方のベースになっているように思います。

小原啓渡

2008.08.27

産学連携

「さ」、「産学連携」で。

今、京都の工芸繊維大学で非常勤講師として、一種の「学内ベンチャー」の授業を受け持っています。

たまたま、京都府が立ち上げた「文化ベンチャー」を促進するプログラムのゲストで講演をさせていただいた時に、工芸繊維大学の先生が来られており、後日、その先生が担当されている「現代GP」の授業を手伝ってもらえないかという申し出をお受けしたのがいきさつです。

ちなみに「現代GP」というのは、大学等が実施する教育改革の取組の中から、優れた取組を選び、文部科学省が支援しているプログラムの略称です。

この「学内ベンチャー」は、「クラフト・コンシェルジェ」というもので、京都にまだまだ残っている伝統工芸の技術や職人さん達と、伝統工芸の技術や素材を扱って新商品の開発や販売を行っている、あるいはその分野に興味を持っている「ベンチャー企業」をマッチングさせることを主なテーマにしたプロジェクトです。

ある意味で、僕が大学で講師をしていること自体「産学連携」ですが、大学と伝統工芸産業およびその分野に係るベンチャー企業が連携するこのプロジェクトは、まさに「産学連携」の一つのモデルケースだと思います。

工芸繊維大学に来る前、他の美術系大学で3年間、非常勤講師をしていましたが、生徒数が約80名と多く、どうしても一方的に講義をするというパターンになりがちなのが面白くなくて辞めさせていただきましたが、現在の生徒は十数名、授業の時間枠を超えて自主的にかかわってくれるので、僕自身、とても面白みを感じています。

はたして、このプロジェクトが「ベンチャービジネス」としてモノになるかどうかは分かりませんが、少なくとも教育改革の切り口としての可能性は高く、新しい大学の取り組みとして興味深い試みだと思っています。

小原啓渡

2008.08.26

コスプレ

「こ」、「コスプレ」で。

「コスプレ」とは、「コスチュームプレイ」の和製英語だそうですが、C.C.O(クリエイティブセンター大阪)では、年に何度も「コスプレ」のイベントが行われています。(主催事業ではありません)

一体どんなイベントなのかというと、元造船所の敷地(C.C.O)を使って、様々なアニメのキャラクターに扮した若者たちが写真を撮り合っている、それだけのことで、何かショーやコンサートをやるわけでもなく、100人ほどのコスプレイヤーが、ゆるい感じで交流しているといった催しです。

何とも不思議な雰囲気ですが、意外に健康的で、参加者はとても楽しそうです。

ところで、先日、白い半そでのカッターシャツに、オーソドックスなスラックスを履いていたら、
「小原さん、なんだかコスプレみたいですよ」とある女性に言われました。

「はぁ?!、コスプレって何のコスプレ?」と聞くと、

「サラリーマン」のコスプレらしい。

確かに、日頃、スーツを着ることもなければ、白のカッターシャツを着ることもないので、彼女にとっては余程僕の服装が「非日常」に見えたのでしょう。

つまり「コスプレ」は、「非日常」というのがミソなんだと気付きました。

それにしても、サラリーマンの服装がコスプレに見えるというのは流石に驚きで、日頃の服装をちょっと考え直す必要があるのかなと思った次第です。

小原啓渡

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