小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.08.25

結果

「け」、「結果」で。

「結果を出す」という場合、「成果を上げる」という意味が含まれることが多いですが、まずは、「成果」とは何かを考える必要があると思います。

例えば、仕事において「結果を出す」とは、「会社の利益を上げる」というような意味で使われることがほとんどですが、本来「成果」とは、自分自身の問題として捉えるべきものだと思っています。

「結果」における、「出るもの」と「出すもの」、つまり自分以外の誰かが出したもの(判定したもの)と、自分が出したものでは、意味合いが大きく違います。

「結果を出す」とは、自分でけじめをつけること、たとえ不完全であったとしても、とりあえずであったとしても、最後までやり切ることだと思います。

「成果」とはその「出来栄え」ではないと思うのです。

たとえば一編の小説を書き始めた場合、ストーリーや構成がむちゃくちゃで、内容的に薄っぺらであったとしても、最後まで書き続けて「完」という文字を入れる、これが結果を出すということだと思います。

もし、途中で筆を折ったとしたら、それも現象的には結果かもしれませんが、「成果」とは言えない。

「成果」は、練り直すことで、必ず次のより良い「成果」、「結果」につながるものです。

また、どんな小さなことでも、やり切ることで「達成感」が生まれ、この「達成感」が新たなエネルギーと自信を生み出します。

つまり「結果を出す」ということは、ある意味で「やり切ることで達成感を獲得する」と言い換えることが出来るかも知れません。

「達成感」というのは、他人が決めるものでも、数字や順位で測れるものでもない、その部分をしっかりと踏まえて、「結果を出す」ことに精進していくべきだと思います。

小原啓渡

2008.08.24

「く」、「口」で。

「口は禍のもと」などと言いますが、「口」は「言葉」の比喩的な表現ですね。

特に会話は、「売り言葉に買い言葉」などという表現もあるように、「失言」であったり「言葉足らず」であったり、「自分勝手な解釈」であったりと、文章でやり取りされる内容以上に「トラブル」が生じる可能性を孕んでいます。

文字(文章)というのは、相手に伝わる前に、言葉を選んだり練り直す時間がありますが、口語の場合は、感情に影響を受ける度合いも大きいですし、論理的に考える時間も少なくなります。

おまけに、録音でもしていない限り証拠もないので、「言った、言わない」の不毛な展開になる場合も多い。

仕事上で起こるトラブルの多くも、文章化していないことで泥沼化します。

いわゆる「契約」というのは、こういったトラブルを未然に防ぐためのものですが、同じ内容の契約書でも日本とアメリカでは、文言の量が数倍違うということをよく聞きます。

日本における契約のベースに「信用」があるということ、アメリカが多民族国家であり、異文化間における誤解が生じ易い土壌であるということが主な理由なのでしょう。

兎にも角にも、「あいまいさ」が日本文化の特徴の一つに挙げられることもしばしばですが、トラブルにつながる可能性がある事項に関しては、出来る限り文章化して、口が禍にならないように十分気をつける必要がありそうです。

小原啓渡

2008.08.23

奇跡

「き」、「奇跡」で。

「奇跡」とは、「人間の力や自然現象を超えた、科学的に証明することができない現象」を言うのだと思いますが、科学の最先端が日々急速に進んでいることを考えると、今「奇跡」と思えることも100年後には「常識」になっているかもしれません。

まだ「日蝕」が科学的に説明できない頃、いち早くその法則を解明した人物が、「私が太陽を消して見せよう」と宣言し、その予言通りの「日蝕」を見た民衆は、それを「奇跡」と呼んだという話があります。

「奇跡」という言葉には宗教的なニュアンスが含まれることもあるので一概には言えませんが、科学偏重の考えが進めば進むほど、徐々に消えていく言葉なのかもしれません。

ただ、この世には科学で説明できない事象がまだ無数に存在するという事実も、認識しておく必要があると思います。

ひょっとすると近い将来、「奇跡を信じる心が奇跡を生む」というような理論が、科学的に証明される日が来るかもしれません・・・。

小原啓渡

2008.08.22

会社

「か」、「会社」で。

「会社」とは、商法の観点からいうと「利益を追求する法人である」ということになりますが、最近取りざたされるようになった「CSR」(企業の社会的責任)の観点からすると、それだけでは「片手落ち」ということになります。

僕も一経営者として、「本質的に会社とは何なのか」を考え続けています。

法的には、あくまで経済活動を行っていく上での一つの形態、およびシステムですが、社会的には「理念」を追求し、どう社会に貢献できるかが重要な存在意義であると思います。

ただ、社会貢献を目的とした「理念」を追求さえすれば、それで会社が繁栄し、サスティナビリティー(継続性)を維持できるかと言えば、それだけでは足りないというのが現実でしょう。

本来、「ありがとう」の形を変えたものが「お金」であるという考え方が正当だと思いますが、経済、経営、特に金融の世界でその概念が通用するかというと疑問です。

やはり会社は、「理念」と「利益」を両輪に、正当に営まれるべきものなのでしょう。

ちなみに、「アートコンプレックスグループ」の会社理念は、「アートを通じて、新しい価値観を創造すること」にあり、設立以来10年が経過していますが、残念ながら「利益」という片輪が弱いという課題を抱え続けています。

「この業界では、ある意味、仕方ない」と言って逃げるのは簡単ですが、活動を継続していくためにも、何とか両輪がバランスよく機能するよう尽力しなければならないと思っています。

小原啓渡

2008.08.21

大人

「お」、「大人」で。

以前このブログで、「老人」とは「老後の安定を基準に今を生きている人」だと書きました。
従って、20代でも「老人」はいると。

この観点からすると「大人」とは、老後とまではいかないまでも、「将来の安定を基準に今を生きている人」と言えるかもしれません。

そして、「小人(こども)」とは、「今の楽しみを基準に今を生きている人」

それなら、自分はどうありたいか。

「実現したい夢を基準に、今を生きている人」でしょうか。

今となっては、幼い子供のように、将来に向けた思いをゼロにすることは不可能ですし、かと言って、生きているかどうかも分からない老後の心配に備えて今を生きることもできません。
そして、そもそも「安定」という概念が希薄な僕にとっては、将来的な安定を基準に今を生きるというのも違う気がします。

ただし、「夢」あるいは「目標」に到るためには、失敗や挫折を避けて通ることはできないでしょうし、
「安定」とは対照的な「挑戦」と、それに伴う「試行錯誤」を繰り返す「不安定」な生き方にならざるを得ないと覚悟する必要もあるでしょう。

それでも、出来ることなら、「将来の夢を基準にした今を、子供のように楽しめる大人」でいれれば最高だなと思っています。

小原啓渡

2008.08.20

エイズ

「え」、「エイズ」で。

もう十数年前になりますが、僕がテクニカルデレクターをしていた頃、フランス公演ツアーの現地コーディネーターをしてくれたのが、ダミアンというまだ30代前半の男性でした。

パリの空港で初めて会った時、映画「オーメン」に出てくるダミアンとは大違いの優しい笑顔と落ち着いた雰囲気に好感を持って、すぐに打ち解けることが出来ました。

仕事もきっちりとこなしてくれ、僕以外のメンバーに対する心遣いも申し分なく、そのツアーは彼のおかげもあって大成功に終わりました。

ツアー終了後、僕だけ数日パリに残ることにしたのは、彼が「ケイトはいつもホテルと劇場しか見てない、少しはパリを観光したら? 」「うちに泊まったらいいし・・・」と言ってくれたからでもありました。

「二人で住んでるから、リビングのソファーベッドしかないけど・・・」という彼の話から、僕はてっきり彼女と同棲しているのだと思い込んで、彼のアパートに向かいました。

アパートの扉を開けて迎えてくれたダミアンの後ろを、素っ裸の男性が僕の方を無愛想にチラリと見て通り過ぎました。
ダミアンの同居人は男性でした。

そして、彼は末期のエイズ患者でもありました。

ダミアンに全く悪気はなかったと思いますが、彼の同居人である彼氏がエイズだということも知らされていなかった僕は、正直言って、かなり動揺してしまいました。

その頃、僕にはエイズに関する知識が全くといっていいほどなく、しばらくでも一緒に暮らすことに感染の不安と恐怖を覚えたからでした。

最初の夜、リビングのベットの中で、「明日、何か理由をつけてこのアパートを出ようか」と、真剣に思い悩んで眠れませんでした。

朝方、飲み物を取りにキッチンに行こうとした時、彼らの寝室の扉が空いていて、ダミアンが裸で彼を抱いて寝ているのが見えました。

あの時、僕の中で起こった強烈で複雑な感情を今でも憶えています。

自分では理解できない行為を目の当たりにしたショック、一か月近く一緒に仕事をしてきて感じ取っていたダミアンの豊かな人間性の真髄に触れた感動、逃げ出そうとしていた自分の矮小さ・・・。

ほんの数日でしたが、この経験が、「愛」の本質を考え始めた最初のきっかけだったような気がします。

小原啓渡

2008.08.19

泡沫(うたかた)

「う」、「泡沫(うたかた)」で。

「泡沫(うたかた)」とは、泡がすぐに割れてなくなる様子から、儚く消えるものに用いられることばです。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」(方丈記)

そして、このブログのタイトル、「諸行無常」

僕の深いところを流れる、美意識の一端です。

小原啓渡

2008.08.19

医療

「い」、「医療」で。

4年ほど前まで、僕は十二指腸潰瘍に悩まされ続けていました。
10年以上、具合が良くなったり悪くなったりを繰り返していて、当時かかっていた病院(日赤)では「おそらく神経性のものですから、生活を変えるしかないですね」とまで言われていました。

確かに不規則な長時間労働、飲み会等も多く、経営者としての心労などもありましたが、仕事を変える気など全くなかったので、持病として一生付き合っていかなければならないと覚悟していました。

しかし、症状は進退しながらも少しづつ悪くなっていて、いよいよ飲み続けていた薬も効かなくなり、ある方の紹介で、名医と評判の中国人の医師に診てもらうことになりました。

僕が10年以上にわたる症歴を説明すると、「すぐ完治しますよ、ピロリ菌です」と、検査前にも関わらず自信ありげにおっしゃいました。

「ピロリ菌のことは僕も知っていて検査もしましたが、結果は陰性で、日赤では神経性だと言われたんですけど・・・」

「ピロリ菌の検査には3種類あって、違う検査法ならピロリ菌が見つかりますよ、胃潰瘍の90パーセント以上がピロリ菌絡みですから・・・」

その後、胃カメラ。

「う?ん、これはかなりまずいなぁ。潰瘍が瘡蓋のように大きくなっていてカメラが通らないかも・・・、通らないと切らないとしかたないですね?・・・・・、あっ!、通った・・・、良かったですね、手術の必要はないです」

ホッとすると同時に、半信半疑でピロリ菌の検査を受けて、結果を待ちました。

数日後、ピロリ菌、検出。

「この薬、1週間飲み続けたら、完治です」

「マジっすか?」

数日後、確かに痛みは消えていましたが、10年以上も患った持病です。
こんなに簡単に治るはずがないと思い、「痛み止めだけは下さい」というと、
「必要ないです、完治です」と、きっぱり。

それ以来4年以上が経過しますが、本当に一度も痛んだことがありません。

このピロリ菌、1983年に発見され、2005年にノーベル医学賞を受けるまで、なかなか日本では受け入れられなかったと聞きます。

症状が出る以前でも、ピロリ菌さえ除去しておけば、ほとんどの潰瘍や胃炎は消滅するという事実は、つまり、胃腸科の患者が激減することになります。
そして当然、医薬品メーカーにしてみれば、薬が売れなくなるわけです。

病院やメーカーは、病人が増えることで利益が増加します。

病気にならないための「医療」、「東洋医学」や「代替医療」が過去になかなか浸透してこなかった理由には、こういった経済システムの裏があったのかもしれません。

医学においては、「対処療法」(病気を治す医学)だけでなく、病気にならないための医学も同様に、いやそれ以上に大切であるはずです。

僕の場合は、たまたま良い先生に出会えて、本当に幸運だったと思いますが、ピロリ菌の検査を早めに受けて除去さえしておけば、僕のように苦しむ人がいなくなるかもしれません。

やはり、病気にならないための「医療」を個人個人がもっと研究し、日々の生活に前向きに取り入れていくべきだと思います。

小原啓渡

2008.08.17

愛ー2

今日から6周目、「あ」は「愛」に関しての考察を続けてみるつもりなので、前回に引き続き2編目、「愛ー2」で。

「愛」は抽象的な概念ですが、もし、それが具象であると仮定した場合、その見え方、表出のされ方というのはどんな感じだろうと考えてみました。

かなり強引で難解な自問自答ですが、僕が出した結論は、「美」でした。

本質的に僕が「愛」の存在を感じる、もの、行為、思想などに共通するものは「美」です。

例えば「自然」、ありのままの自然というのは全く過不足がなく、調和が取れていて、完璧に美しい。自我を超越した行為、思想も美しいと思います。

もちろん、何を「美しい」と感じるかは人によって多少なりとも違いがあるとしても、水平線に沈んでいく夕陽を見て、「醜悪で見苦しい」と思う人はいないでしょう。

人は美しいものに触れたとき、生きている実感と共に生きるエネルギーを得ます。本質的な美に興味を持ち、探究し、美と共に生きようとする人は、どこか生き生きとしています。
それに引き替え、醜悪なものは人の平安を乱し、エネルギーを奪い取っていきます。

そこに愛があるのかどうか、「美」はその判断基準としてかなり有効であると思っています。

ただ、完璧な「自然」に対し、人間の行為や思想に関する「美」が曖昧で微妙なのは、完璧な人間などいないからでしょう。

キリストやブッダ、あるいは天才と言われる人達はある意味、ある部分で完璧なものを備えていたのかもしれませんが、大部分の人間は未熟で、悟り切っている人などいません。

ただ、「美」を追求しようとストラグルしている人と、全く本質的な「美」に対する認識がない人との違いは大きいと思います。
言葉を変えるなら、理屈抜きで「生きる上での美学」を持っているかどうかが大切な気がします。

僕は、自分を消耗させるもの、平穏を乱すものに本質的な愛はないと思っていますが、大部分の人は「愛」を一般的な「恋愛」の一部だと捉えていて、自我にまみれた「恋愛」にエネルギーを奪い取られ、それを「愛」だと錯覚しているふしがあるのも否めません。

つまり、そこから逸脱しない限り、本質的な「愛」を認識することはできないだろうし、「美」の本質を見極めることもできないのではないかと思うのです。

自分自身に関していうなら、まだまだ未熟さを実感する毎日ですが、少なくとも自我と戦う気持ち、本質を見極めたいという思いだけは強靭だと思っています。

そして、美を探究し続ける日々の中で自らの美学を確立し、いつか、本質的な「愛」の認識に到りたいと心から願っています。

小原啓渡

2008.08.16

「わ」、「枠」で。

今日で5周目が終了です。

「枠(わく)」とは、「ジャンル」であり「カテゴリー(部類)」であり、「型」でもあると思います。(型にはまる、という言い方がありますね)

「アートコンプレックス1928」を立ち上げる時、枠の中で勝負するより、枠のないところで自由に動いてみたいという思いが強くありました。

当時、アートのフィールドにおいても芝居、ダンス、音楽、美術など、かなり明確に世界が分かれていて、よく行政の各部署が「縦割り」だと言われるように、アートの世界も同じように「縦割り」な部分が多いと感じていました。

今では、「コラボレーション」という言葉も一般化して、ジャンルを超えた協働作業が普通に行われていますが、当時はかなり各ジャンルに閉塞感があったように思います。

ただ、僕は「コラボレーション」というのも、各ジャンルが交流しているだけ、というイメージがあって今一つ好きになれず、「混沌から新しい創作が生まれる融合感」に興味と可能性を感じていました。

そこで思い至ったのが「コンプレックス」つまり「複合」という概念でした。

当時は「シネマコンプレックス」という言葉もなく、コンプレックスといえば「マザコン」を思い浮かべる人がほとんどで、「アートに対する複雑な心情」という風に取られて、名前の意味を聞かれるたびに何度も説明する必要がありました。

とにかく、枠を作る方向ではなく、枠を外していく方向に進むことを決めて仕事に取り掛かったわけですが、今思うに、その選択でよかったと思っています。

もちろん各ジャンルの中でそのクオリティーを突き詰めていく行為は素晴らしく、価値あることだと思います。
ただ、僕が興味を持つ「新しいもの」というのは、最初は奇妙に思え、どのカテゴリーにも入れづらい、ジャンルを特定しづらいものですが、それ故に面白く、大きな可能性を秘めていると思うのです。

これからも、いい意味で、「枠」にも「常識」にも捉われない発想を大切にし、積極的に新しい創作に関わっていきたいと思っています。

小原啓渡

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