小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.08.15

露天風呂

「ろ」、「露天風呂」で。

京都に鞍馬温泉という「露天風呂」があるのをご存知でしょうか?

湯船はそんなに広くもないですし、景色が格別というわけでもないのですが、市内から車で1時間以内で行ける手軽さと、すぐ近くに鞍馬寺などもあるので、外国から来られたお客さんの京都観光の締めにはかなり適しています。

外国の皆さんはとても気に入ってくれますし、「裸と裸の付合い」で、親しみが増すというのもいいですね。

フランスの演出家「フィリップ・デュクフレ」を連れて行った時も、すっかり上機嫌で、併設する旅館の脱衣所にあったマッサージ機に何度も100円玉を入れていたのを思い出します。

もちろん、時には一人で行くこともありますが、基本的に他のお客さんが多いと嫌なので、狙うのは雨の日、台風が近づいている時なども素敵です。

入っているのは自分だけですし、強風にあおられて、百日紅(さるすべり)の花が、水面を覆うほど湯船に舞い落ちるなんてこともありました。

雨に打たれながら「露天風呂」に浸かるっていうのも、たまには良いもんです。

小原啓渡

2008.08.14

歴史

「れ」、「歴史」で。

「歴史は巡る」、「歴史から学ぶ」などとよく言われますが、素直に受け入れられない自分がいます。

今の世界、今の人類の営みを手放しで素晴らしいと言えないのが本心で、歴史が巡り、その歴史から学んだ結果が今の世界なら、この言葉自体に疑問を持たざるを得なくなるのです。

自然界のサイクルあるいはバイオリズム、つまり天体などの動きも含めた「周期」というのは、確かに存在すると思います。
しかし、その周期というのは時間的概念であって、全く同じことを繰り返すということではなく、徐々に変化し続けているものです。

つまり、重要なのはどう変化していくのか、どこに向かっているのかという事だと思います。

破滅に向かっているとも思える人類の歴史を軌道修正するために、人類はどこかで、過去の歴史を概念的に断ち切り、全く新しい未来を創造するという価値観に基づいた別次元に、劇的なシフトをしければならない気がします。

「恐竜が絶滅したように、人類も絶滅する」

これが歴史が教える究極の回答だと思うからです。

小原啓渡

2008.08.13

ルクソール

「る」、「ルクソール」で。

1997年、11月、僕はエジプトの古代遺跡が集積する街「ルクソール」に滞在していました。

この街は、ナイル川によって東西が分断されており、太陽が昇る方角の東側には「カルナック神殿」など「生」を象徴する建造物があり、日が沈む西側には「死」を象徴する「王家の谷」(ツタンカーメンの墓は有名)などがあるのですが、まさか僕がこの街で「生」と「死」の間を通り抜けることになるなど思ってもいないことでした。

宿泊したホテルのロケーションが悪く、まともに使える公共交通機関がなかったので、滞在中はずっとタクシーを使って移動していましたが、最初に乗ったタクシーのドライバー(男性)から、いきなり生的な誘いを受けて(僕にはそういう趣味はない)、ヤバい街だなという感覚を持ちました。

そんなわけで、どうしても見ておきたい観光名所を絞り込んで、じっくりと回り、他の時間はホテルのプールサイドで読書をして過ごしました。

最後に残っていたのが「ハトシェプスト女王葬祭殿」でしたが、何らかの手違いで最終日のホテルが取れておらず、一日繰り上げてカイロに戻ることに決め、朝、カイロまでのチケットを手配してから、謎に包まれた建造物「ハトシェプスト女王葬祭殿」に行きました。

そしてカイロに戻ってすぐに、そこで起こったテロ「外国人観光客襲撃事件」を知りました。

イスラム原理主義のテロリスト集団が無差別に銃を乱射、日本人10名を含む、63名が死亡しました。

一日違い、しかも予定ではテロのあった日のほぼ同時刻に、現場に行く予定だったことを考えると、まさにすり抜けた感じでした。

後になってから考えた事ですが、ホテルで予約の不具合があった時、通常の僕なら「日本人だからと、なめられたくない」という思いが強く、特に海外ではとことんクレームをつけて主張を通すところが、「まあ、いいか」と思って、すぐにカイロに戻ることを決めたのは、やはり「虫の知らせ」ではなかったかと思うのです。

こうした事件に関わって実際に認識するかどうかは別にしても、実は、生と死の挟間をかいくぐるように人間は日々を生き抜いているのかもしれません。

小原啓渡

2008.08.12

リラックス

「り」、「リラックス」で。

北京オリンピック、始まりましたね。
日頃テレビを見ない僕も、家に帰ると速攻でスイッチを入れてしまいます。

特に高校までやっていた柔道に関しては細かい技や選手同士のかけ引き等も見てとれるので面白く、ついつい見入ってしまいます。

柔道の試合は5分間ですが、試合が始まって1分くらいの間に、勝敗を予測するのが好きです。

僕が勝敗を予測する上でのポイントが「リラックス度」です。
実力が段違いの場合も含め、大体、緊張とリラックスのバランスを注視していると予測の精度が上がってきます。
(特に柔道のように一対一で行う競技)

もちろん、人によって内面の状態が表出される度合いや、その出方も違いますが、「リラックス度」という一点に絞って表情や動作をじっくり観察していると、徐々に各選手の緊張感や気合いが感じ取れるようになり、それが予測の結果に比例してくるのが面白いですね。

強烈なプレッシャーがかかる緊張状態で、どの程度リラックスすることができるのかは、スポーツの場合、特に重要な気がします。

自分の能力を十二分に出し切るためには、「集中」することが必要で、最高レベルの集中には「リラックス」することが必須だと思います。

精神的、肉体的なセルフコントロールの大切さは、プレッシャーが大きく、実力が伯仲しているオリンピックだからこそ見えてくるものがあると思います。

世界のトップアスリートが集うオリンピックは四年に一度、究極的な状態における人間観察をする機会としても貴重です。

しばらくは深夜の「テレビっ子」、容認です。

小原啓渡

2008.08.11

ライター

「ら」、「ライター」で。

僕にとって「ライター」と言えば「ジッポ」です。

「世界の名品」といって差し支えないと思います。
煙草を吸わない人には分からないかと思いますが、構造、デザインの美しさだけでなく、機能性と耐久性にも優れていて、文句のつけようがないほど完成されたプロダクツだと思います。

外観のシンプルな美しさと程よい重量感、リッド(ふた)を開閉する時の音、フリント(発火石)から飛ぶ火花、炎が燃え上がる一瞬の発火音、揺れる炎のグラディエーション、かすかににおい立つオイルの香り・・・。

いやぁ、惚れ惚れします。

煙草をやめない理由の30%くらいは、ジッポとずっと付き合っていきたいからかもしれません。
こういう名品は、使えば使うほど自分に馴染んできて、味が出てきます。
(しかもジッポは、修理に関する永久保障が付いている)

僕は、ビンテージ物のコレクターではないですが、海外に行くと、骨董市では必ず古いジッポを探して、気に入ったものがあれば購入して旅の思い出にします。

実は、たばこケースも「これ以外は考えられない」というドイツ製のケースをずっと使っていますが、やはり自分が本当に気に入った名品というのは、
「使えば使うほど味がでる」という定義につきるのだろうと思います。

小原啓渡

2008.08.10

「よ」、「夜」で。

桑名正博の歌に「夜の海」という曲があります。

もう30年近く前、僕がネパールで長期滞在していた時、スタジオミュージシャンのみつおさんという日本人に会いました。

海外で同じ日本人とツルむのが嫌で、たまに会ってもやり過ごすのが常でしたが、みつおさんだけは一緒にいたい人でした。
高いテクニックを持ったギタリストで、彼が借りていた森の中の一軒家によく遊びに行きました。

みつおさんはイギリス人の彼女と住んでいて、夜、気分が乗ると僕と彼女に聞かすともなく、徒然にギターを弾いてくれました。

聞いたことのあるフレーズもありましたが大体は即興かオリジナルで、僕が当時持ち歩いていたハーモニカと朝方までセッションすることもありました。

僕がネパールを発つ前の夜、みつおさんが初めて日本語で歌ってくれたのが、この曲のレコーディングにギタリストとして参加したという「夜の海」でした。

別れという感傷的な気分もあったのでしょう、すごく感動して、コードと歌詞をその場で憶えてしまいました。

僕も少しはギターを弾きますが、何も見ずに弾き語りが出来るのは今でもこの曲くらいです。

ごくたまに、この曲を弾く時、兄貴のようだったみつおさんの顔が浮かんできます。

夜が来る、明日が見えない。
夜の海、あなたが見えない。
冷めていく、二人の恋が。
消えていく、夏の終わり。

通り過ぎてく二人と、お互いにわかっていても、
そんなはずじゃないのに、涙、こぼれそうで、苦笑い。
そして、ドラマは終わり・・・。

帰るとこ、あなたはあるのさ。
僕はまた、誰かを探すさ。
暑い夏、狂った真似して、
少しづつ、本気になったよ。

通り過ぎてく二人と、お互いにわかっていても、
そんなはずじゃないのに、涙、こぼれそうで、苦笑い。
そして、ドラマは終わり・・・・。

小原啓渡

2008.08.09

浴衣

「ゆ」、「浴衣」で。

今日は淀川花火大会だったようで、電車の中は浴衣姿の若い女性でいっぱいでした。

和服姿の日本女性の代名詞ともいえる「おしとやか」というには、少々そぐわない女の子達も多くいましたが、やはり、視覚的にはかなり目を引きます。

「目立つ」とか「非日常」という意味でも、女性にとって花火大会やお祭りというのは浴衣を着れる数少ない機会ですから、こういう機会に和服が広がっていくのはとても素敵なことだと思います。

女性に比べて男性で浴衣を着ている人は少ないように思いましたが、もっとチャレンジしてみてほしいですね。

僕も数年前に浴衣を新調しましたが、仕事がら色々なイベントがある日というのは、休めない日が多くなかなか着る機会がありません。

着物というのは、オーソドックスな柄で、質のいいものなら長く着れますから、僕が子供のころ着ていた浴衣を自分の息子が着ていたりするとやはりいいものです。

以前ニューヨークのブロードウェイで浴衣姿の日本女性が歩いているのを見ました。
日本で見る以上に際立っていて、道行く人たちも振り返って見ていました。

外国の人たちにとって浴衣は、はかなりエキゾチックに映ると思いますので、海外旅行に一着持って行くというのも、ウケ狙いとしてもいいかもしれませんね。

小原啓渡

2008.08.08

約束

「や」、「約束」で。

子供のころ、僕の田舎に映画館が一つありました。
なぜ、兵庫のど田舎に映画館があったのかは今でも疑問ですが、確か中学に入る頃にはもう取り壊されていたように思います。

僕が初めて映画館で見た映画が「約束」、萩原健一と岸恵子が主演、僕が小学高学年の頃ですから、1970年代初めの作品だと思います。

子供向けの映画ではないのに、なぜ映画初体験がこの映画だったのかは、これまた疑問ですが、強烈な印象が残っています。

まだ白黒テレビが主流の頃、田舎の小学生が大画面でカラー映像を見ること自体、今から考えてもインパクトがあっただろうと思いますが、よりによってこの映画、母親の墓参りのために仮出所した女(岸恵子)と逃走中の強盗犯(ショーケン)の哀しくも切ない大人のラブストリーで、もう35年以上経ちますが、いくつかのシーンを鮮明に思い出せるほど僕の脳裏にこびりついています。

是非いつか、もう一度見てみたい映画です。

そして、男と女の間で交わされる「約束」に、今でも言いようのない「哀しさ」と「切なさ」を感じ取ってしまうのは、おそらくこの映画の影響なのだと思います。

小原啓渡

2008.08.07

モダン

「も」、「モダン」で。

ある美術系の学生に、「モダンって何だと思う?」と聞いた時、随分考えた挙句「お好み焼きと焼きそばをミックスさせた感じですか?」と逆に聞き返されて、
「いや、それってどちらかと言うとポストモダンに近いでしょう」と僕もつられて答えていました。

確かに「モダニズム」、特に「ポストモダン」に関しての定義は難しい。

例えばダンスの、「モダン」と「コンテンポラリー」の違いを明確に説明することが難しいように、「モダン」と「ポストモダン」の明快な境界を示すのは困難だと思います。

時は急速に流れますから、30年前に「ポストモダン」あるいは「コンテンポラリー」と言われたものが、すでに今は「クラッシック」に近いものになっていたりする場合もありますから、学術的な定義を別にすると、やはり「今」という基準点から感じる過去の「懐かしさ」を含んだものが「モダン」だと捉える方が一般的かもしれません。

1928年に建造の「アートコンプレックス1928」はまさに「モダン建築」だと思いますが、最初にその空間に身を置いた時、身体的な深い記憶が呼び起こされた感覚がありました。

「はっきりとは憶えていないけれど、過去に実際感じとったことのある記憶・・・」

ところで、「モダン焼きがモダンなら、ポストモダンは何?」と聞いて、
「オムそばですか?」と答えた前述の学生には、お笑い系に進路を変えるべきだとアドバイスしました。

小原啓渡

2008.08.06

名刺

「め」、「名刺」で。

「名刺」は、中国の唐の時代から伝わったと言われ、当時は竹木で作られていたということです。
「名紙」でないのが納得できますね。

仕事柄、色々なジャンルの方々と名刺交換する機会が多く、1週間で100枚入りのボックスが空になってしまうことも少なくありません。

そんな中でも、印象に残る「名刺」というのは意外に少ないですね。

「印象に残る」というのは、単に変わっているというのではなく、やはり「センスがいい」というのが僕の基準です。
最近ではグラフィックデザイナーの森本千絵さんの名刺が素敵でした。
大胆な構図(デザイン)の中に職人芸ともいえる細工があって、そのバランス感覚に一流の仕事をされているセンスの高さが伺えました。

過去にもらった名刺で印象に残っている人といえば、インテリアデザイナーの森田恭通さんやアーティストのやのべけんじさんですね。

そう考えてみると、各界で活躍されている一流の方々が多い。

もちろん、そうした方々の名刺はお金がかかっていそうなものがほとんどですから、名刺にお金をかけられるという経済的な部分もあるかもしれませんが、いくら名刺にお金をかけたところで、車を買うような出費になるわけでもないので、やはり、自己PRも含めた自己表現に対するこだわりが強いのだと思います。

最近、自分をいかに他の人と差別化して表現していくのかという「セルフブランディング」という言葉をよく耳にしますが、まさに「名刺」というのは、「セルフブランディング」にとって重要なアイテムであると思います。

そういった意味でも、「最低限の情報が入ってさえいればなんでもいい」といった考えは捨て、思い切ってお金をかけて、名刺にとことんこだわってみるのも大切かもしれませんね。

小原啓渡

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