小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.08.05

無駄

「む」、「無駄」で。

「人生に無駄はない」とはよく言われることで、確かにうなづける部分はありますが、僕の場合、何かを「ダラダラやる」という事に関しては、「無駄」をモロに感じます。

「ダラダラやる」というのは、ゆっくりと時間を過ごすとか、ゆっくりと休む、という事とは全く違っていて、「ダラダラやる」くらいなら、寝てる方がまだましだと思っています。

いつももっと時間が欲しいと思っているからかもしれませんが、やらねばならないことを半分の時間でやってしまえれば、その時間分自由になれます。

ただ、何でも早ければいいという事を言っているのではなく、「ダラダラ」やるのが無駄だと思っているだけで、ゆっくり、じっくりとやることが、物事によっては非常に大切で、しかも楽しい場合もあります。

人生の中では、例え好きなことであったとしても、その準備であったり、間接的に必要なことで、嫌でも「やらねばならないこと」は山ほどあります。
その嫌なことに時間を取られる事こそ嫌ですから、なるべく「ちゃっちゃっ」と片づけてしまいたい。

そして、僕の経験上「ちゃっちゃっ」とやってしまう方が疲れないし、出来がいい場合の方が多いのです。

小原啓渡

2008.08.04

ミッション

「み」、「ミッション」で。

「ミッション」とは、いわゆる「使命」のことですが、
はたして、人生における「ミッション」はあるのでしょうか?

人の命に価値があるとするなら、人生にも何らかの意味があるはずで、ひょっとするとその「人生の意味」につながるものが「ミッション」なのかもしれません。

それでは、「人生の意味とは」となるとあまりにも深淵過ぎて、簡単に書き切れるものではないですが、僕なりに考えてみると、
「自分が本当に好きなことをする」ことに何かヒントがあるような気がしてなりません。

また、全人類で同じ人間は一人としていないことを考えると、「ミッション」も人の数だけあるのだろうとは思うのですが、その「ミッション」が向かう先は、何となく一点に向かっているような気がしています。

その一点が、おそらく「愛」という概念なのだろうとも思っていて、自分が好きなことに没頭して、時間を忘れ、「無」の状態になっている時の暖かい精神状態が、「愛」の感覚に近い気がするのです。

そしてこれらの「・・・な気がする」をつなぎ合わせてみると、
「自分が本当に没頭できることを誠実に突き詰めること」
これが、人生における「ミッション」なのではないかという考えに至ります。

そして、その「ミッション」を見つけ出し、その「ミッション」を基軸に生きることが人生の意味なのかもしれません。

唯一無二な命を与えられたからは、唯一無二な自分を生き切る。

唯一無二な自分を生き切るには、自分自身に正直でなければなりません。

自分以外のものから植え付けられ、投げかけられ続ける「怖れ」や「不安」から唯一解き放たれるのが、何かに没頭している時間であるなら、一生かけて好きなものを追求してみるのも、意味深い生き方なのかもしれないですね。

なぜなら「愛」は、「おそれ」や「不安」の対極にあるものだと僕は思うからです。

小原啓渡

2008.08.03

間(ま)

「ま」、「間(ま)」で。

日仏共同プロジェクトでコンテンポラリーダンスのカンパニーを立ち上げた時、そのカンパニー名を決める会議がありました。

以前から「間(ま)」の概念に興味を持っていた僕が、アメリカ人でフランス在住の振付家に「間」は、英語とフランス語では何と言うのかと質問すると、適切な語彙が見つからないという答えが返ってきました。

そこから、様々な「間」に関する議論が展開し、結局「間と間(MATOMA)」というカンパニー名に決定しました。

「間」には、時間的な概念と空間的な概念が共生しており、時間と空間を創出する舞台芸術においては特に重要な概念であり、この「間」をどう捉え、どう作品に組み込むかが、作品のクオリティーに大きく作用するという考えから、この名がカンパニーが目指す創作の原点ともなりました。

このプロジェクトが始まった1992年、以前少しこのブログでも紹介した振付家「スーザン・バージ」と、コンテンポラリーダンスの殿堂、パリの「テアトル・ド・ラ・ヴィル」(パリ市立劇場)でのプロデュース公演を成功させることが、このカンパニーの最終目標と定め、それまでは決して諦めないことを誓い合いました。

それから7年間、厳しい条件の下で海外公演を続け、遂に1998年、
「テアトル・ド・ラ・ヴィル」での公演が実現しました。
二日間の公演は全てソールドアウト、フランスの批評家による「20世紀を代表するカンパニー」の一つにも選ばれました。

日本の場合、海外で高い評価を受けると国内での評価が上がるという事例が多く、「さあ、これから日本で・・・」と思った矢先、スーザンがカンパニーの解散を宣言しました。

「これからなのに、なぜ?」と戸惑う僕に、
「ケイト、憶えてるでしょ、ここが私たちの最終目的地だったはず・・・」
スーザンはきっぱりと答えました。

当時の僕は、「MATOMA」の「間(ま)」は、そこで完全に途絶えたと思いました。

でも今の僕は、そこからまた新し「間」が始まったのだと思えるようになっています。

僕にとって「間(ま)」は、複雑で、繊細で、終りのない概念なのです。

小原啓渡

2008.08.02

歩行

「ほ」、「歩行」で。

昨日から100種類のワークショップを集めた「DOORS」というフェスティバルが始まっています。
自分で企画しておいて言うのもなんですが、本当に面白い。

僕自身、10日間の期間中、出来るだけ多くのワークショップを受けたいと思っていて、今日も様々なジャンル、4つのワークショップを受講しました。

そのうちの一つが「ナンバ歩きを体験しよう」という講座。

横浜市から視察に来られていた文化課の方々は、難波の名所を見て歩くワークショップと勘違いされていたようですが、江戸時代までの日本人の歩行は、現在の歩き方とは違っていたらしく、これを「ナンバ歩き」というのだそうです。

30名近い受講者が、会場となったレトロな芝川ビルの階段を上ったり下ったりしながら、「ナンバ歩き」を実際に体験し、ほとんどの方々が驚かれていました。
下るときの腰への衝撃がほとんどなく、上りも不思議なくらい楽なのです。

現代では、交通機関や移動するための道具(車、バイク、自転車など)が普及して、江戸時代以前に比べるととんでもなく歩く距離が短くなりました。
「健康のために歩こう」というブームで、万歩計が大ヒットした時期もありましたね。

ただ、昔は、歩かない限りどこにも行けなかったわけですから、より効率的に、体に負担をかけないように歩いていた、という先生のお話に納得がいきました。

昨年のワークショップフェスティバルでは、「モデルウォーク」を体験して「美しい歩行」を学び、今年は「効率的な歩行」ということで、体の中の感覚を比較しながら、とても楽しむことができました。

宣伝ということではなく、本当に価値あるワークショップがラインナップされていますので、是非今からでも、足を運んでみてください。

(8月10日まで、詳細は「100DOORS」で検索!)

小原啓渡

2008.08.01

ヘリコプター

「へ」、「ヘリコプター」で。

今までに2度、「ヘリコプター」に乗りました。
最初は、グアムで海岸線を飛び、2度目が「グランドキャニオン」です。

ラスベガスのホテルにリムジンで迎えに来てくれ、市内のヘリポートから飛ぶというパターンでしたが、かなり満足できました。

午後の遅めにベガスを発って、抜けるような青から徐々に赤みを帯びてくる空に向かって飛び続けます。
グランドキャニオンに着く頃はちょうど夕方、息をのむ壮大な渓谷が見えてきます。

夕日に染まり刻一刻と表情を変えるグランドキャニオンは、まさに圧巻で、美しさだけでなく、地球の壮大さを十二分に感じさせてくれます。

ヘリコプターならではだと思いますが、渓谷を蜂のように抜け、足もとから眼下を眺めることもできます。

コロラド川の上空を流れに沿って旋回し、夕焼けが徐々に闇に溶けていく空を背にしてベガスに引き返すのですが、さすがにエンターテイメントの街ですね、このツアーは最後にもしっかり見せ場が用意してありました。

ネオンの宝石箱かと思える、ベガスの空から眺める夜景です。

自然の神秘には到底かなわないと言えど、これはこれで眩い人工的な美しさがあり、ネオンで瞬くカジノとライトアップされたホテル街を低空飛行ですり抜けていきます。

まるで、映画の冒頭でよく使われる摩天楼の一シーンのような眺めでした。

何だか旅行会社の宣伝ブログのようになってしまいましたが、
料金もそれほど高くないので、ラスベガスに行かれたら、是非とも思い切って「ヘリコプター」に乗り、グランドキャニオンまで飛んでみてはいかがでしょうか。

(たまに、事故で墜落することもあるようなので、そこのところは、自己責任でお願いしますね)

小原啓渡

2008.07.31

フリーター

「ふ」、「フリーター」で。

大学を中退し、インドで放浪生活を送った後、帰国して、昼は瓦屋さん、夜はジャズ喫茶でアルバイトをしていました。
まさに「フリーター」ですね。(当時は、この言葉さえなかったですが・・・)

今では、「フリーター」が一般的に認知され、何となく市民権を得ている感がありますが、当時はかなり世間的に肩身の狭い存在でした。

だからというわけでもありませんが、その後、舞台照明の会社に入り、技術を身につけて「フリーランス」になり、最終的には自分の会社を立ち上げました。

「フリーター」「正社員」「フリーランス」「経営者」と一応一通り経験してきて良かったと思うのは、それぞれの立場の人の気持ちや、考え方が何となくわかるということです。

「子供を持ってみなければ、親の気持ちがわからない」と言われるように、やはり実際その立場になってみなければ、実感として分からないことは確かにあると思います。

また、今ではどんな業界でも「契約社員」というのがありますが、当時(約30年前)、この言葉もなかったですね。

実は、僕が3年ほど正社員をやっていた会社を辞めた理由が、この「契約社員」に関連しています。

ある日、会社に「15日契約の労働形態に変えて欲しい」と要望を出しました。

当時は、一般的に正社員かアルバイト(もしくはフリー)という二つの雇用形態しかなかったので、会社側は「そんな中途半端なことはできない、実際そんな形でやっている会社があれば例を示せ」と言われて、探しましたが実際見つかりませんでした。

「他でやっていなくても、検討してください、認めてもらえなければ辞めます」と食い下がって、役員会で話し合ってもらいましたが、結局、前例がないということを理由に断られ、言葉通り辞職しました。

その後、自分の会社を始めた時、まっ先にやったのが「契約社員制」の導入でした。
その人に応じて、正社員の他に10日契約、15日契約、20日契約など、どんな形でも応じる労働形態を作りました。(今では全く普通ですが・・・)

正社員になってしまうと、自分のやりたいことが時間的にやりにくくなる、とは言うものの、最低限の収入は確保したい、こういった人たち(例えば役者やダンサーなど)にとっては、有用だったと思います。
(実際、当社のスタッフの多くが、劇団などの出身です)

つまり、「フリーター」であれ、「契約社員」であれ、「正社員」であれ、人それぞれが自分の働き方を選択した結果のものであるならば、それがその人の生き方でもあり、他人がとやかく言う必要はないし、もちろん上下関係などない、というのが僕の長年変わらない見解なのです。

小原啓渡

2008.07.30

ヒット

「ひ」、「ヒット」で。

今日、イチローが3000本安打を達成しましたね。

インタビューに応えてイチローが、
「一つ一つの積み重ねが記録であって、特別なことはない・・・、積み重ねていくことの大切さを子供たちに伝えたい」と語っていました。
(基本的にテレビを見ないので、野球に関しては全くの門外漢ですが、イチローと先頃引退した野茂くらいは知っています)

ジャンルに関係なく、世界のトップレベルに到達する人というのは、部分的に人並み外れた資質が備わっているのかもしれませんが、イチローの言う「積み重ね」も確かに重要なのだろうなと思います。

何かを積み重ね、続けていくことができるかどうかは、「忍耐力」とか「根性」とかの要素もあるとは思いますが、「それが好きかどうか」ということの方が重要なポイントである気がします。

好きなことは、どんな状況でも前向きに続けることができますし、その部分に優れた資質が備わっていれば、まさに一石二鳥、「クリーンヒット」ですよね。

小原啓渡

2008.07.29

八方美人

「は」、「八方美人」で。

「八方美人」とは、基本的に誰にでもいい顔をする人のことで、批判的に使われることの多い言葉ですが、「愛想がいい」とか、「誰にでも好かれる」という性質だけをとれば、決してマイナスとは言えません。

基本的な良し悪しの判断は、その人の目的に寄るような気がします。

広く人間関係を結びたいなら「八方美人」は有効ですが、深い人間関係を求める場合にはマイナスになることもあると思います。

「敵のいない人は、本当の味方もいない」というのは一理あると思いますし、
「二兎を追う者、一兎も得ず」というのも一理はあると思います。

ただ、「一理ある」というだけで、真理とは言い難い。

もし僕が、これに関して格言をつくるなら、
「嘘気(嘘の木)に実はなく、本気(本物の木)に実は成る」
とかどうでしょう?
ちょっと洒落てて、語呂もいいと思うのですが、これもまあ、一理あるなという程度でしょうか?

究極のところ、「自我」(これも定義が難しい概念ですが・・・ここでは愛の対極という意味で)に基づいた「八方美人」なのか、「愛」に基づいた「八方美人」なのかがポイントなのだと思うのですが、
そもそも愛に基づいた行動をとっている人が「八方美人」と思われることはまずないですから、やはり「八方美人」と言われる人は、一見博愛的な雰囲気を持ちますが、実は、良くも悪くも、自我の強い人なのかもしれませんね。

小原啓渡

2008.07.28

のらいぬ

「の」、「のらいぬ」で。

「谷内こうた」という作家の作品に「のらいぬ」という絵本があります。

「絵本」というと、どうしても子供向けというイメージが強く、本屋に行っても大人はほとんど絵本のコーナーには行きませんが、学生の時、たまたま立ち読みをしていて、この本に出会いました。

自分が持っていた絵本のイメージが、この本で変わりました。

登場人物は、主人公の「のらいぬ」と少年。

ほとんど言葉がなく、広がりと透明感のある絵、そして何より「読後の余韻」に、一つの形容詞では決して表現できない、輝きと深みがありました。

今までにこの絵本を、少なくとも10冊くらいは買っていますが、今は手元にありません。

つい何かの機会があると、人にプレゼントしてしまうからですが、どうやらもう絶版になっているようなので、古書でも探して一冊は手元に置いておきたいなと思っています。

小原啓渡

2008.07.27

眠り

「ね」、「眠り」で。

先日、電通の知り合いが、さんざん飲んで家に帰って寝てる時に、無意識に起き上がって、「やっぱり、帰るわ」と言ってしまい、隣で寝ていた奥さんに「どこに帰るの?」と聞かれて目が覚めた、という話をされて爆笑してしまいましたが、本人は自分が眠っていることに気づいていない、というのも「眠り」の大きな特徴ですね。

最近では脳科学が発展して、眠りのメカニズムに関しては随分解明が進んでいるようですが、まだまだわからないこともたくさんあるようです。

基本的に眠りは、肉体の休息というより脳の休息のためにあるというのが一般的で、アインシュタインが一日に10時間以上眠っていたと言われていることを考えると、確かに納得できる気がします。

一般的な睡眠時間が8時間だとすると、人生の三分の一は眠っているわけで、この比率を考えるだけでも、睡眠が人間にとって大きな意味を持っているのだろうことは推測できます。
必要もないのに、人生の三分の一を生理的に使ってしまうというのは考え難いからです。

また、ギリシャ神話で、眠りの神「ヒュプノス」と死の神「タナトス」が兄弟とされていることから、眠りと死を関係付ける考え方が長く続いて来たことがわかりますが、僕にとっても非常に興味深い考察の一つです。

よく、「眠ったまま死ぬ」というのが人の臨終の理想形として語られますし、僕もできればそうありたいと思いますが、眠りと死の根本的な違いをその時知ったとしても、もう遅いですよね。

それでも、知りたいと思うので、やはり僕は「眠ったまま死ぬ」ことにしたいと思います。

小原啓渡

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