小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.07.16

寿司

「す」、「寿司」で。

酸味には、柑橘系と酢の2種類があると思うのですが、僕は酢の方が好みなので、「寿司」は好きです。

ただ、生魚系が苦手なのと、ある理由があって、すし屋に行くのを躊躇する傾向があります。

というのも、僕が好きなネタというのが、いか、たこ、げそ、どうびん、つまり値段的に一番安いのもばかりで、できればこの4種類だけを順番に食べていたい人なのですが、これらばかりを注文していると、ケチくさく思われるだけでなく、僕がおごる立場の時などは相手が気を使って高いネタを注文しづらいというのがあるわけです。

何も見栄のために食べたくもない高いネタを注文するのも嫌なので、同席の相手には、「気にしないで」と断わって、上の4種類と時々卵や梅しそ巻きを注文して終わってしまいます。

さすがに、こんなつまらない気遣いをするのが嫌で、だんだんすし屋が苦手になりました。

その点、回る寿司は誰にも気がねする必要がないからいいですね。
(なんかさみしい気もしますが・・・)

小原啓渡

2008.07.15

自画自賛

「し」、四文字熟語が続きますが、「自画自賛」で。

「自画自賛」とは、あまりいい意味では用いられない言葉ですが、クリエーターやアーティストにとっては、ある意味で大切な資質であると思っています。

つまり、「自画自賛」出来ないようなものを人に勧めるな!ということですね。

自分の世界だけで完結するものなら問題ないし、「アドバイスを下さい」というならそれでいいと思いますが、
日本人が手土産を渡すときに「つまらないものですが・・・」と言う謙遜の習慣と、自分の創作物(作品)を一緒にして欲しくないと思っています。

ましてや、芝居やダンス、コンサートなどでお金を払って見てもらう場合、
「つまらないものですが・・・」では、だめでしょう、というのが僕の思いです。

もちろん、クリエーターやアーティストにとって「完璧」というのは難しいし、自分の作品に対する不満が、また新しい創作を生むということも分かります。

ただ、現段階での作品に満足できていなくても、自分の才能やセンス、創作意図やプロセスに関しては自信を持っているという状態になっていないのなら、お金をとって見せてはいけないと思うわけです。

また、「自画自賛」すればするほど、叩かれやすいというのも事実ですし、色々な言い訳をつけることで、酷評から身を守ることも可能になります。

しかし、この「叩かれる」ことを怖れていては、独自の世界観を持った創作などできないと思います。

「叩かれて」なお、それをエネルギーにして進むこと、叩かれたことを真摯に受け止めて、次の創作に生かすこと、どちらにしても、その時点で「自信をもってお勧めします」と言える状態まで練り上げるこだわりが、クリエーターには必要なのではないでしょうか。

小原啓渡

2008.07.14

塞翁が馬

「さ」、「塞翁が馬」で。

「人間万事、塞翁が馬」とは、有名な中国の故事ですね。

簡単に説明すると、
塞翁が飼っていた馬が逃げてしまった(不幸)、
数ヵ月後にその馬が駿馬を連れて帰ってきた(幸)、
その馬に乗った息子が落馬して足を骨折してしまった(不幸)、
その後、戦乱が起こったが、息子は骨折をしていたために兵役を免れた(幸)。

と、まあ、「禍福はあざなえる縄のごとし」というような意味で、すべての事象は連動していて、その時点で幸せと思われたものが、後に不幸と思われるものに結びついたり、その逆もしかりで、幸不幸をその時点で判断するのは軽率だということなのでしょう。

この故事は、今、幸せだと思っている人にとっては「戒め」となり、今、不幸だと思っている人にとっては「希望」になるという意味で、万能の効力を持った言葉ですが、単に自然の摂理を説いているとも言えますね。

月が満ち、欠けていくように、万物は「周期」あるいは「バイオリズム」で変化しています。

これを当然と考えると、物事に「一喜一憂」することがバカバカしくなるか、だからこそ生きてるんだという解釈になるかと思うのですが、僕はどちらかというと前者で、しかも「一喜一喜」、どんな状況でも生きることを楽しんでしまおうというタイプです。

例えば、急いでいるときに電車を乗り過ごしてしまったとします。
僕も普通の人間ですから、一瞬は気分的に落ち込みます。
でも、すかさず、「これは幸福な瞬間に出会うための時間合わせだ」と思うようにしています。
そう思うことを続けていると、それが習慣化されて、だんだん落ち込む時間が短縮されて、遂には、乗り過ごした時点で「ラッキー!」となってくるのです。

習慣とは怖ろしいもので、これで「一喜一喜」が完成します。
(完全なる習慣にするまでが大変ですが・・・)

要は、物事はただ「起こっている」だけ、それに「幸不幸」「善悪」などの判断をするのは主体である自分自身の問題だということです。

たしかに「苦」がかるから「楽」がある、「死」の恐怖が「生」の歓喜を呼び起こすということもあると思いますが、
できれば「苦」は少ない方がいいですよね。

小原啓渡

2008.07.13

ゴシップ

「こ」、「ゴシップ」で。

「ゴシップ」とは、「低俗なトピック」の事ですかね。
「噂話」「流言」、それに「陰口」といったニュアンスが加わった「低俗な話のネタ」とでもいいましょうか、テレビのワイドショーのレベルから、業界や社内のレベルまで、内容も様々ですね。

「口コミ」というのも一種の「噂話」ですが、基本的には、実体験に基づいた「批評」ですから「低俗」だとは言えません。

「低俗」というのは、自分が経験したわけでもない、背景や事情などを突き止めないままに、事象を自分勝手な解釈で批評するという「浅はかさ」のことです。

まあ、笑える「ゴシップ」や、楽しい気分になる「ゴシップ」はまだ許せるとしても、人を確証なく非難することで自分を引き上げようとする「ゴシップ」や、「人の不幸は蜜の味」といった種類の「ゴシップ」には、自分とは全く関係がなくても本当にうんざりします。

そういった場面に出くわしたときは、決して同調せず、ただ悲しい表情でその人を見る、というのが得策かと思います。

小原啓渡

2008.07.12

決断

「け」、「決断」で。

「決断」には、「潔さ」が必要だと思います。

20代の頃、「決断」とは「究極の選択」であり、何かを選ぶということは、それ以外のものを捨てること、諦めることだと単純に思っていました。
(確かに、そうなのですが・・・)

そう思うが故に、捨てることに未練と不安を感じて、「決断すること」から逃げていたように思います。

今はどうかというと、その時「決断」して何かを捨てたとしても、その後で必要だと思えばまた拾えばいい(獲得すればいい)、という考え方に変わっています。
(捨て去って二度と取り戻せないものは、本質的には「命」だけだと思っています)

そう考えることで、躊躇なく、瞬間的な「潔さ」を獲得することができるようになりました。

おそらく、「瞬間的」であるということに「軽率さ」を感じる方は多いかと思いますが、どんなに熟考したとしても、「決断する」「決定する」というのは、瞬間です。

もちろん「瞬間」つまり「今」をどう捉えるかによって大きな相違が生まれるとは思いますが、
僕の場合は、「瞬間の中に永遠が存在する」という概念が定着しているので、瞬間の「ひらめき」や「判断」を非常に重要で、信頼に値するものだと考えています。

「朝令暮改」とは、朝出された命令が夕方には改められるということから、法令などがすぐに変更されて一定せず、あてにならないという悪い意味で用いられるのが一般的ですが、
自らの哲学、価値観などが確立してさえいれば、「朝令暮改」を怖れる必要はない、いや、自分の出した決断に捕らわれ、変更することを怖れることをこそ怖れるべきだと、僕は思います。

小原啓渡

2008.07.11

クイズ

「く」、「クイズ」で。

ここのところ、堅いタイトルが続いているので、今日は「ご長寿早押しクイズ」の中から、僕が面白いと思ったものをピックアップしてみましょう。

この「ご長寿早押しクイズ」は、司会の鈴木史朗アナが質問を出して、80歳くらいのご長寿さん3人が、早押しで回答するというクイズ番組ですが、ご長寿さん達のボケ具合が突拍子もなくて面白く、かなり人気があった番組です。
(ヤラセではないかという噂もありましたが・・・)

とは言うものの、僕はリアルタイムで見たことがなく、この番組が好きだった友達から何度も聞いたのと、ネットの動画で見た程度なのですが、いくつか憶えているので挙げてみましょう。

Q;「きつねうどんには油揚げをいれますが、力うどんには何を入れる?」
A;「気合い」

Q;「あしたのジョーの主人公、矢吹丈の職業はなんでしょう?」
A;「象使い」

Q;「七夕に織姫と彦星が渡る川は?」
A;「三途の川」

それでは、最後に

Q; 「桃太郎侍の決めぜりふ、てめえら人間じゃね?、に続くセリフは?」
A;  「斬ってやる!」
司会;「斬るだけじゃない」
A;  「叩いてやる!」
司会;「それを合わせて」
A;  「叩いてから、斬ってやる!」

小原啓渡

2008.07.10

教育

「き」、「教育」で。

昨日、近畿大学の特別講義に招かれて、質疑応答も含めて1時間半、180人ほどの生徒さんにお話をしてきました。

講義のテーマは、「社会環境整備に関連したアートプロデュース」でしたが、講義の後、呼んで頂いた学科の先生達と時間を忘れて話し込んでしまいました。

去年までの三年間、京都の精華大学で非常勤講師をしていて、今年から工芸繊維大学で特別授業を受け持っているので、今の大学生の気質というか、傾向というのは何となくつかんでいるつもりです。
なので、大学の先生方の多くが抱えておられる「ジレンマ」はよく分かります。

ただ、モチベーションが上がらない学生たちの気持ちも分かる気がします。
なぜなら、大学で講義をしている僕自身が、大学を中退しているからです。
(大学が無意味に思え、3年生になってすぐに辞めました)

大学を捨てた人間が大学で講師をしていること自体、矛盾しているように思われるかもしれませんが、僕は、だからこそ、学生に伝えられるものがあると思っています。

人類や国家にとって、そして個人にとって、「教育」は本当に大切だと思います。

だからこそ今、「教育とはなんぞや」という本質的な問題に立ち返って、全てを検討し直す必要があると思います。

そして、僕が思う「教育の本質」とは、

「学ぶことの楽しさを教えること・・・」

小原啓渡

2008.07.09

「か」、「顔」で。

「男の顔は、決算書」

あれっ!、っと思った方は正解です。

一般的には、「男の顔は、履歴書」ですね。

男女に関わらず、「顔」にその人の生き様や現在の状況が現れるというのは、確かにあると思います。
ただ、「履歴書」というのは少し物足りない。
というのも、履歴書を読むのに訓練は必要ないからです。

例えば、何年生まれで、○○大学を出て、○○会社で何年働き、資格は・・・などなどの情報は、まさに読んで字の如し、深読みできる要素が少ない。

それに引き替え、「決算書」を読み込むためには、知識や訓練、あるいは経験も必要ですし、決算書には、現在の問題点や将来性を読み解く情報もふんだんに盛り込まれています。

「顔」というのは、履歴書ほど単純な情報ではなく、決算書のように、かなり複雑な情報源であると僕は思っています。
つまり、見る側の能力にも大きく左右されるという事ですね。

ところで、僕が思う「いい顔」とはどんな顔かというと、「可能性を感じさせる顔」でしょうか。

僕の場合、過去(履歴)ではなく、将来性こそが人(顔)を見るポイントです。
 

小原啓渡

2008.07.08

落ち

「お」、「落ち」で。

漫才や落語でいう「落ち」に、僕はすぐれた創造性を感じます。

人を意図的に笑わせる技術というのは、並大抵のことではないと思いますが、その中でも「落ち」は重要な要素の一つですね。

僕が思う「落ち」とは、「痛快な裏切り」です。

常識的な展開と結末なら、誰も驚かないし、爆笑を誘うこともない。

予想外の結末に出会ったときや自分では思いもよらない結末で話が完結した時、人は驚きます。

そして、その展開と結末にユーモアがあれば、驚きが爆笑という形で表現されます。

面白い「落ち」に出会うと、「なるほど、そう来たか」と、ひとしきり笑った後で感心してしまうのが、僕の常です。

北野武監督、初期の映画作品には、漫才で培われたビートたけしの「落ち」の技術がうまく使われていたように思います。
観る者の予測を微妙に外し続ける展開、そして痛快などんでん返しなど、初期の北野武はやはり漫才師のビートたけしだったのだと僕には思えます。
そして徐々に、北野武という映画監督になっていった。

予測を裏切りながら納得させる、つまり、「目から鱗が落ちる」状態を創りだす。

「落ち」とは、目に着いた常識という鱗を「落とす」、卓越した技術だと思います。

小原啓渡

2008.07.07

エコ

「え」、「エコ」で。

「エコロジー」は、直訳すると「生態学」のことですが、最近では生物学の枠を越えて地球環境問題など、極めて広範囲に用いられる言葉になっています。

「エコ」という短縮された言葉は、かなり広く知られるようになり、それに伴って地球環境に対する意識も少しづつ高まってきているように思います。

とはいうものの、「知っている、から、している」というコピーがありますが、僕自身が日常的にどれほど「エコ」に関して、具体的な動きをしているかというと、正直言って、外出時に待機電力を切ることと、コンビニなどで10円以下の釣り銭を、緑を守るための寄付ボックスに入れることくらいです。

ある日、家のコーヒーメーカーが使用していない時も、かなりの熱を持っていることに気づきました。

抽出のスイッチを押すとすぐに熱湯が出るように、常に水を沸かしている状態になっているようで、なんとなく「これはいかんだろう」と感じて、メインスイッチを切りました。

その時、何と表現したらいいのか、ほんの少しですが、変な気持ちよさがありました。

「電気代を節約できる」そういった損得勘定ではなく、単純に、「なんかいいことした」という自己満足的な心地よさでした。

それから、その「小さな気持ちよさ」がクセになって、毎日スイッチを切るようになり、それが習慣になりました。

確かに、僕が待機電力を切ったところで、それが地球環境に影響を与えることなど無いに等しいだろうし、電気代がそれで何十円節約できたとしても、そんなことはどうでもいい。

ただ、「なんか良いことした」的な自己満足、これは確かにあって、意外にこの個人的な「小さな気持ちよさ」が、大きな地球を変えるのかもしれないなと思う、今日この頃なのです。

小原啓渡

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