小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.06.26

萌え

「も」、本日出張中なので短く、「萌え」で。

「小原さんって、廃墟萌え?」
と聞かれて、
「はぁっ???」
と、なりました。

「工場萌え」とか「廃墟萌え」とかが密かに流行っているそうです。

一種の「オタク」系だと思いますが、そう言われてみると確かに僕は「廃墟萌え」の「ハシリ」かもしれません。

2004年に初めて「名村造船所跡地」に行ったとき、2つのドックや、当時は原寸大で船の設計をしていたという巨大な製図室に「萌え」、対岸の「中山製鋼所」の異様な存在感に圧倒されました。
(中山製鋼所は、映画「ブラックレイン」のロケ地になったところです)

その後すぐ、完璧に「萌え」た僕は、造船所跡地のオーナーに、この跡地を使用させていただけるようお願いにあがり、現在の「C.C.O」がスタートしたわけです。
(名村造船所跡地は今年、経済産業省から「近代産業遺産」に認定されました)

最初にやったイベント「ナムラアートミーティング」では、この臨海工業地帯を船で周遊するプログラムを企画し、2度目は、中山製鋼所の古い高炉が解体されると聞いて、大型バスをチャーターし、その解体現場を見学するツアーも行いました。

やはり、僕は、「工場萌え」「廃墟萌え」、つまり「オタク」なのでしょうか?

小原啓渡

2008.06.25

迷惑

「め」、「迷惑」で。

「迷惑」というのは、かけられると煩わしいものです。

が・・・、注意すべきだと思うのは、「迷惑をかけてはいけない」という思いが強すぎて、人に対して「極端に遠慮をしてしまい、何も頼めなくなる」ことです。

もちろん、「迷惑をかけてやろう」「困らせてやろう」という意図があっての「迷惑」や、不特定多数に対する「公共的迷惑」は許せませんが、
「迷惑かもしれないけれど・・・」という認識の下で、敢えて「お願い」しなければならないケースというのもあると思います。

「お願い」というものには、つねに「迷惑」の影が付きまといますが、それでも、お願いした方がいい場合はあるものです。

「お願い」する根本的な目的が、自分も含めて多くの人の喜びや幸せにつながるものなら、「お願い」をすることでそのアクションが加速度的に進む場合もあるからです。
(もちろん、お願いされる方も、その目的をしっかりと見極める必要があると思いますが・・・)

そして、頼まれた段階では迷惑で煩わしいものであっても、結果的に何らかのかたちで社会に役だったとしたら、その迷惑は違った受け取り方になるはずです。

確かに、迷惑をかけないに越したことはないかもしれません、ただ、あまりにそれを怖れ過ぎると「協力」や「協働」のない、希薄でつながりのない社会になってしまう気がします。

自分の信念が愛に基づいていると確信できるなら、迷惑をかける相手に感謝し、必ずお返しをするという気持ちで、思い切って「お願い」してみる、そういった割り切りも大切だと思います。

小原啓渡

2008.06.24

矛盾

「む」、「矛盾」で。

「この宇宙はね、ここと、ここでない場所とでできあがってるんだよ」

先日、友人からもらった「羊の宇宙」という絵本に書かれてあったことばです。

「矛盾」とは、ある意味で「ここ」と「ここでない場所」、

つまり、「宇宙は矛盾でできている」

男と女、善と悪、生と死、光と影・・・、何かの本質を解き明かそうとする場合、どうしても必要になるのが「そうでないもの」あるいは「対極にあるもの」です。

「二元論」の基本的概念ですが、唯一では決して存在できないのがこの世界です。

極端かもしれませんが、「真理」さえ、「矛盾」を含有していると僕は思っています。

小原啓渡

2008.06.23

見栄

「み」、「見栄」で。

「見栄」とは、「実際以上に自分をよく見せようとする態度」ですが、多かれ少なかれ人間なら誰しも持っている性質ではないかと思います。

ただ、ちょっと背伸びするくらいなら「成長」という意味でも有効かと思いますし、「自己PR」としても目的にかなっていますが、やはり度が過ぎると問題ですよね。

実際とあまりにもかけ離れていることが発覚した時の痛手は大きいし、見栄というのは往々にして見破られてしまいます。

僕の考えでは、「見栄を見栄と見破れないような人に見栄を張る必要がない」というのがあって、かなり複雑な言い回しですが、結局、自分を売り込みたいと思うような相手には、極力「素(す)」の自分でいようと努めます。

見栄や嘘を見抜かれるとマイナスポイントになりますから、最初から「見透かされている」という前提で臨みます。

どんなジャンルでも、一流の人というのは感性が非常に鋭いですから、嘘を感覚的に見抜いてしまいますし、人を見極める能力を持っている方が多い。

自分の嘘や見栄を見抜けないような人に自分を高く売り込んだところで、結局疲れるだけで、トラブルの元だと思います。

という僕も、大学生になりたての頃、出身地を聞かれて、「兵庫の田舎」と答えるのが嫌で、見栄を張って「神戸の近く」とか言ってごまかしていたのを思い出します。

きっと若いころは自分に自信がなかったんだろうと思うと、自信のない人ほど見栄を張るということなのかもしれません。
(自信というのも難しい概念で、またいつか書いてみたいと思いますが・・・)

つまるところ、「虚飾」と「素(す)」
美しいと思う感覚は人によって違うとは思いますが、僕は「素」「ありのまま」の方が美しいと思います。

良い悪いは別として、自分にとっての「美しさ」を、あくまで追求していきたいと思っています。

小原啓渡

2008.06.22

真面目

「ま」、「真面目」で。

「真面目」というのは、他人からの視点と自分からの視点によって違うような気がします。

「あの人って、真面目だよね」という場合、概して「模範的な人」というニュアンスになると思うのですが、往々にして「優等生」というのは僕にしてみると「うさんくさい」。

常識や人の目を必要以上に気にしている傾向がある分、内面的にストレスをため込んでいる場合も多いような気がします。

僕が思う「真面目な人」というのは、「自分の思いや価値観に対して真剣で、自分に誠実であろうと努めている人」ですね。

そういう人って、他人からすると「我がまま」だったり、まさに「不真面目」に見えたりする場合も多い。

ただ、自分の思いや価値観が愛に基づいたものであれば、両方の視点から見て「真面目」なわけで、これって理想的ですね。

ところで余談ですが、時々僕の文章の中に出てくる「愛」については、まだちゃんと書いていませんが(というより定義し切れないのですが・・)、
ひょっとするとこのブログ全体のテーマ自体が「愛」なのかもしれないなと、ふと思ったりしました・・・・。

小原啓渡

2008.06.21

「ほ」、「本」で。

僕には「師」と呼べるような人がいなかったので、特に哲学的な領域においては「本」から学ぶことが多かったように思います。

ただ、衝撃的な影響を受ける「本」に巡り会うという事はそうそうあるものではないですね。

「本」といっても結局のところ、作家ということになるのだと思いますが、僕が最初に思想的に傾倒したのは「サルトル」です。
そして、そのきっかけになった「本」が、「水いらず」。
「水いらず」は5編が収録された短編集ですが、特にその中でも「壁」という作品に衝撃を受けました。

今までの人生の中で、もっとも憂鬱で、もっとも後ろ向きだった高校時代、読み返すだけでは飽き足らず、サルトルの「壁」を何度も原稿用紙に書き写すことで、なんとかギリギリのバランスをとっていました。
(先日少し書いたドストエフスキーの「地下室の手記」もそうですが、この「壁」も、人間の極限状態での思考を扱った作品です)

「本」との出会いは、自分がその時どんな精神状態かによって、その影響は大きく変わると思いますが、世界的な哲学者や思想家に「本」を通じてとはいえ、出会えるわけですから、やはり積極的に出向いて行く(読む)べきだと思います。

「いかなる人間も生きながらに神格化されるには値しない」
そう言い放って、ノーベル文学賞を辞退したサルトル。

これほどの作家にいつでも会える(読める)のに、会わないのは、やはりもったいないと僕は思うのです。

小原啓渡

2008.06.20

勉強

「へ」、「勉強」で。

「勉強する」って、どういうことなんでしょうね。

学校などで言われる「勉強」を具体的に考えてみると、体育や音楽・美術などを除くと、どの教科もほぼ「記憶する」とか「計算する」ということに集約されてくるような気がします。

もちろん、人間として最低限の知識と計算能力は必要であるとしても、僕の場合、受験勉強で山のように記憶したことで、今なお憶えていることなどほとんどありません。
つまり社会生活を送る上では、さほど重要ではないということになります。

それなら「勉強」は不要か、といえば違いますよね。

「勉強」というのは、「目的に達するために必要な事を学ぶ行為」のことを言うのではないかと僕は思っています。

そう考えると、重要なのは「目的」であるはずです。

もし受験勉強に問題があるとするなら、「いい学校に入れば人生安泰」といった、親や世間の価値観で勉強の目的を決められてしまう子供たちがいるという現実にあるのでしょう。
(本人の意思で「いい学校に入る」ことが、目的として定まっているのなら、何も悪くはないと思いますが・・)

自分の決めた目的を達成するために、
「自分に合った、より効率的な学習方法を見つけ出すこと」、
「その方法を継続的に実践する術(すべ)を身につけること」、
この2つを、試行錯誤しながら学ぶことが「勉強」ではないかと僕は思います。

もちろん、小学生などにそんなことが分かるはずがないという意見もあるかと思いますが、僕は逆に、幼少の頃から、そういったことを分かり易い表現と方法で教えていくことが「教育」なのではないかと思っています。

分からないだろうから、とにかく「詰め込む」「やらせる」というやり方では、物心ついた時には「勉強嫌い」になり、そのまま社会に出て、勉強することの大切さや楽しさを一生知らないまま人生を送る人間を増やし続けていくと思います。

社会に出てから続ける「勉強」こそが、その人の一生を決めると僕は思います。

小原啓渡

2008.06.19

フットワーク

「ふ」、今日もタイトなスケジュールなので簡単に、「フットワーク」

自分ではかなり「フットワーク」は軽い方だと思っています。

「足で稼ぐ」と言いますが、まさに僕はそんなタイプです。

元々現場の技術者なので、デスクワークより動いている方が楽しいですし、
「現場100回」、つまり刑事さんではないですが、「答えは現場にある」と固く信じています。

あと、人に会うという意味でもフットワークは大事ですね。通信機器がどんなに発達して便利になっても、直接会うということの重要性は変わりません。
逆に、何でもネットで済む時代だからこそ、「足を運ぶ」ことに価値があるのだと思います。

目的以外の話から、貴重な情報を得ることも多いですし、何といっても相手との親密感が増しますよね。

そして、何より、「メタボ」に効きます。

小原啓渡

2008.06.18

「ひ」、「暇」で。

「人生とは、死ぬまでの暇つぶし」というシュールな言葉がありますが、これを自分に当てはめてしまうと、僕には人生がない、ということになってしまいます。
つまり、僕には「つぶす暇」がない。
かといって、暇がないほど忙しいのかというと、そうでもないし、暇のない生活なんて嫌ですね。

僕にとって「暇」とは、「やらなければならないことから離れた時間」のことで、そういう意味で暇な時には「やりたいこと」をやる、それだけです。

「やりたいこと」はいつも列を作って待っている状態なので、暇を見つけてはそれら「やりたいこと」に充てていきます。
なので「つぶす」なんてもったいない。

ただ、一般的に「つぶす暇」というのは、「中途半端に空いた時間」のことで、やりたいことをやるには短か過ぎる・・といった状態のことだと思いますし、実際にそんな時間が予想外にぽっかりと空くことはもちろん僕にもあります。

そこで登場するのが、「重いカバン」?です。

「小原さんのカバンって重いですね、一体何が入ってるんですか?」とよく聞かれます。

答えは、「やりたいもの、各種」

その日のスケジュールでは、まずやれないだろうと思えるものでも、やりたいものはとりあえずカバンに入れておく。

例えば読みたい本や雑誌は必ず2,3冊は入っているし、インターネット用のモバイルコンピューターはもちろんDSやipod、その日は必要ないだろうと思える資料も目を通したいものはごっそり入れていきます。

こうしておくと、どんなに中途半端に思える予想外の空き時間も、有効で楽しい「暇」になるわけです。

小原啓渡

2008.06.17

「は」、「墓」で。

田舎には小原家専用の墓地があって、20程の墓石が並んでいます。
(田舎では、大体どの家も自分の土地に墓地を持っています)

刻まれた文字が風化して読めない墓石も多く、仏壇に飾ってある写真も僕から3代前(明治時代)以降で、古い墓に葬られている祖先が一体どんな人だったのか今となっては知る由もありません。
(お寺に保管されている過去帳で名前が分かるくらいです)

インドでは、火葬して(もしくはそのまま)ガンジス川に流し、墓というものがないですし、日本においても古来の葬法は「風葬」ですから(古事記や日本書紀からも明白。与論島では明治初期まで風葬を行っていた)、後世に残すような墓はなかったようです。。

現形の墓が一般化したのが、江戸時代中期からということですから、最も古いもので約300年前、一世代30年としても10代ですから、夫婦別々だとすると小原家の墓石が20くらいというのに正当性が出てきます。

現在では「○○家の墓」として、一つの墓に納めるパターンも多いようですが、おそらく昔は違っていたのでしょう。

自分の死後を考えても仕方ないことですが、さすがにチベットの「鳥葬」や「風葬」も嫌なので、やはり「火葬」希望ということになりますが、
「墓」に関しては、生きてるうちに自分の好きなように建てておきたいなと思っています。

それにしても、僕が死んで10代後も、写真やこのブログなどが残っているとしたら、祖先や死者に対する思いは随分今とは違ったものになるのだろうなと思います。

300年後、僕の子孫がこれを読んでいると想像すると、なんとも奇妙な感覚に陥ってしまいます。

小原啓渡

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