小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2008.06.16
能
「の」、「能」で。
同じ古典芸能の一つ「歌舞伎」に関しては、かなり詳しく語れますが、「能」となると微妙です。
というより、あまり一般の方々と変わらないかもしれません。
(一応有名どころを一通り見たことがあるという程度)
歌舞伎に比べて、演出がそぎ落とされていて、内容も「死者が現生の人間に語る」というパターンが多く、地味と言えば地味ですし(これが「幽玄」というものかもしれませんが・・)、展開のスピードも現代の感覚からするとかなりスローです。
「芸術性は非常に高いが、エンターテイメント性となると微妙」というのが僕の能に対する見解で、僕の精神性が低いからかもしれませんが、
正直、「とっつきにくい」というのが現状です。
ただ、現代の能の原型をつくったといわれる「世阿弥」も含めて、非常に興味深く思っていることは確かで、父が能面(おもて)をつくる「面打ち」だということもありますが、いつかしっかりと係わってみたいと思っています。
以前、フランスのアビニョンフェスティバルで招待公演をされていた観世栄夫さんの新作能を観ましたが(巨大な岸壁が背景の石切り場に舞台を仮設しての大がかりな公演でした)、
最初は一杯だった客席が最後にはほとんどガラガラになってしまい、同じ日本人としてとても残念に思った記憶があります。
能楽堂のような伝統的な空間でならまだしも、ある意味「様式美」を極めた「能」から、一つでも「型」を外すと、まさに「かたなし」になってしまう危険性があることを思い知った公演でもありました。
「能」は、2009年に始まる「世界無形遺産」に、すでに登録されることが決定していると聞いています。
舞台芸術に関わる仕事をしている僕にとっては、どうしても避けては通れないもの、それが「能」だと思っています。
小原啓渡
2008.06.15
寝言
「ね」、「寝言」で。
今日は時間がタイトなので、電車の移動中ですが、簡単に。
「寝言」で思い出すのが、たまたまテレビでやっていたのですが、
寝言で「あ?ねむたい!」と言う人の話。
あと一つは、僕が理不尽なことを言ったとき、
「寝言は、寝てる時だけにして下さい」と言われて、
なかなか面白い「返し」だなと感心したという話です。
寝言みたいな内容ですみません。
今日はこれまで。
小原啓渡
2008.06.14
ぬるま湯
「ぬ」、なかなかことばが思い浮かばず、苦し紛れの「ぬるま湯」で。
先日、知人と話していて、
「家の中は一年中24度なんだ」というので、最近流行のコンピューター制御の家電システムでも入れたのかと思いましたが、
「1度でも温度が変わると子供が泣きだすから、夜中もエアコンかけて24度に保ってる」とのことでした。
小さい子供のいる家では、最近、概ねこうなのかも知れませんが、これってあまりにも甘やかし過ぎなんじゃないかと感じました。
こういうパターンで昔の話をすると、おじさんぽくて嫌ですが、少なくとも僕が子供の頃はエアコンなんてなかったので、夏は暑く、冬は寒いのが当たり前でした。
一日中、年中24度なんて、資源の無駄も含めて、かなりヤバいなと思います。
そういう自分もよくよく考えてみると、会社ではエアコン、交通機関もエアコン、どこの店に入ってもエアコンで、流石に寝るときは切りますが、家でもエアコンを使っています。
いやはや、エアコンのない時代と比べると、いったいどれくらい資源を使い、間接的にもどれくらいのCO2を吐き出しているんでしょうか?
お湯ではなく、空気ですが、完璧に「ぬるま湯」に浸かってますよね。
どうしても厳しい時は仕方がないとしても、やはりこの辺り、一人一人が意識を高めて資源の節約に努めなければいけないと思います。
まずは、エアコンのなかった時代に育った僕たちの世代から、率先して実行する必要があるのかもしれません。
小原啓渡
2008.06.13
ニーズ
「に」、「ニーズ」で。
「ニーズ」とは、端的にいうと「需要」ですが、一般的によくこの言葉が使われるビジネスや経済に関連することだけでなく、あらゆる社会現象の動向にかかわる根本にあるのが、「ニーズ」だと思います。
「どこかに求めるものがあって、動く」
当然求める力が強ければ、動きが加速し、「メガトレンド」といった現象が生まれます。
ただ、「もう、メガトレンドは生まれない」ということも最近よく言われています。
高度情報化が進んでいることが一つの要因だと思いますが、とにかく人々の「ニーズ」が細分化し、多様化していることは事実だと思います。
そこで、「多様化・細分化」という現象を僕なりに解釈すると、それは「個別化・個人化」ということだと思っています。
元来、人は一人ひとりに個性があり、突き詰めていくと「嗜好」においても「思考」においても個別化したものです。
そう考えると、「多様化・細分化」現象は、人々が「自分」を「個」として認め始めた、あるいは「求め」始めた傾向といえるのではないかと思うわけです。
つまり、ここに「求めるもの」(ニーズ)が大きく動いているとするなら、「メガトレンド」は今後も生まれてくると思います。
ただ、そのトレンドの種類が今までとは異なったものになる。
「物」に対する「トレンド」ではなく、「意識」に関連する「メガトレンド」です。
その「ニーズ」こそを、しっかり見極めていきたいと思っています。
小原啓渡
2008.06.12
難題
「な」、「難題」で。
今日、一日で4つの文化ホールを見学し、そのホールが現在抱えている運営上の問題点などを現場の方々からお聞きすることができました。
僕自身が公共・民間のホールを運営管理する仕事をしているので、それらのお話に目新しさこそなかったものの、いくつかの問題点に関しては、どのホールも共通していることを再認識しました。
どのホールも同様に抱えている問題というのは、ともすると「仕方ない」「そういうもんだ」というところに落ち着いてしまい、見直しや改善がされなくなってしまうことがよくあるような気がします。
こういった問題、いわゆる「難題」に関して、僕自身もいつの間にか「そういうもんだから」と、敢えて問題視しない状態になっていたのを、連続して別々のホールから同じ問題点をお聞きしたことで、改めて「難題」の功罪に気づかされた感じです。
特殊な業界において、ある意味、慣習的に続けられてきたシステムを変革するのは大変なことです。
問題だとわかっていても、ずっと変えられずにいたものには、業界内での複雑な構造があったり、本質的な原因の在りかも、かなり根深いものが多い。
そして、問題を内包したまま、いつしか「当り前」になってしまい、だれも手をつけようとしなくなる。
ただ、誰もが解決できなかった、誰もが変革しようとしなかった「難題」に取り組むことは、とても遣り甲斐のある仕事だと思っています。
実は、こういった「チャレンジ」というものにあるワクワク感を、僕自身は行動のエネルギーにしているところがあって、今日も一人、心の中でふつふつとモチベーションが上がっていくのを感じたのでした。
もちろん、「難題」に取り組むということは、時間・労力が何倍もかかり、しかも達成の確率が低いということでもあるわけですから、そこのところは熟考する必要があると思います。
「大人になる」ということが、ある意味「思慮深くなり、危険を冒さなくなる」ということでもあるなら、
「なかなか大人になれない」
これが僕自身が抱える「難題」なのかもしれません。
小原啓渡
2008.06.11
扉
「と」、「扉」で。
「ドアーズ」という企画を昨年立ち上げました。
「ドアーズ」とは、「インターナショナル・ワークショップ・フェスティバル」の呼称で、昨年は38のワークショップを集めて「38DOORS」、今年(8月1日?10日)はその数が100に増えたので、「100DOORS」として開催します。
「ワークショップ」というのは、簡単にいうと、
「参加体験型のグループによる学習や創造の場」ということですね。
「ドアーズ」は、「体験」することの意義を見直し、ライブなコミュニケーションができる場を提供したいと願う有志の思いから始まったフェスティバルです。
ワークショップの内容はノンジャンルで、現代アートから古典芸能、ライフスタイルや趣味、教養に至るまで多岐に渡っています。
各ワークショップはすべて1時間半、参加料も1コイン(500円)に設定して、誰もが気軽に、興味と好奇心だけでも「扉」を開いてもらえるように考えました。
昨年は僕も実際に多くのワークショップに参加し、みなさんと一緒に色々な体験をしましたが、本当に楽しく、新しい発見もたくさんありました。
「文化とは、多様なものの集合体であり、人が創るものだ」というコンセプトをベースにして、将来的にはもっと数を増やし、目標は「1000DOORS」、開催期間も1か月にしたいとスタッフ一同、頑張っています。
是非皆さんも、興味ある「扉」をいくつか開いてみてください!
その「扉」の先に、きっと「心の豊かさに通じる何か」があると確信しています。
小原啓渡
2008.06.10
手相
「て」、「手相」で。
色々な占いがありますが、基本的にこれらの根拠は「統計学」なのだろうというのが僕の考えです。
統計である限りは、あくまで確率、可能性の問題ですから、どこまでいっても科学的な証明には至らないということになります。
それでも実際は、占いを様々な判断の指針としている人は多いようで、僕は過去に2度も、ある人と仕事を始める前にその方々が信じている占い師の所に行かされた経験があります。
「よく当たるから、一度行ってみたら?、面白いよ」
これだけなら、まあ話のネタですし、僕も軽く流してしまうのですが、
「いつなら行ける?予約取っといてあげる」
違う人なのに同じパターンなのが面白いのですが、こうなるとほぼ強制で、
しかも占いの結果は何となくその人に伝わっているような気がします。
僕の場合はその2度とも、「まあ、面白そうだから、いいか」くらいの気持ちで行きましたが、それ以外で自分から見てもらったことはありません。
一度目は生年月日などを言って見てもらう占いで(生年月日だけならわざわざ足を運ばなくてもいいのにと思いましたが・・)、2度目が生年月日と「手相」の両方でした。
結果は2度とも、至極良好な運命ということでしたが、「手相」に至っては、有名な歴史上の人物(徳川家康)の手相に瓜二つ、と何百年も前に亡くなっているその人物の手相をまるで自分が見てきたかのような口調で言われました。
(そういった文献が一応残っているらしい・・・)
まあ、悪く言われるよりは、よく言われる方が嬉しいわけで、有り難く拝聴しましたが、実はその時僕が考えていたのは、現在生存されていて歴史的偉業を成し遂げた人々の「手相」を写真か何かで収集し、バンク化しておけば、将来、統計学的に貴重な資料になるのではないかということでした。
ひょっとすると、そんな写真集が解説つきで出れば、意外に売れるかもしれませんね。
小原啓渡
2008.06.09
梅雨
「つ」、季節がら「梅雨」で。
「梅雨」だけあって、雨の日が多いですね。
雨音を聞いたり、雨の風景を見るのは好きですが、出歩くとなると厄介です。
なんで厄介なのかと考えると、傘を持たなきゃいけないからでしょうか。
つい先日、病院で検査を受けて外に出ると、かなり激しい雨が降っていました。
家を出た時には降っていなかったので傘がなく、どうしようと思った途端に、
「入っていきますか?」と初老の男性に声をかけていただきました。
駅までの10分程度、男同士の相合傘でしたが、話も弾み、とても素敵な時間でした。
「今日、出るとき雨が降ってなかったから、邪魔くさいなと思ったけど、傘を持ってきてよかったよ。雨が降ったからじゃなくて、人の役に立ったからね」
その男性は、さらっとそう言われました。
お互い、どこの誰かも知らない者同士が、気持ちよくコミュニケーションできることって、今の時代なかなか無いような気がします。
昔はきっとこんなことが、ごく普通にあったんだろうなと思うと、とても嬉しかっただけに、ちょっと湿っぽくもなった一日でした。
小原啓渡
2008.06.08
父親
「ち」、「父親」で。
6月の第3日曜日って何の日?と聞いて答えられる人はどれくらいいるのでしょうか。
5月の第2日曜日、つまり「母の日」に比べると、「父の日」って何となく地味ですよね。
基本的に両日とも、子供から親に感謝の意を示す日ですから、子供が両親をどう思っているかが如実に現れることになります。
僕の場合は少し特殊で、両親と同じ屋根の下に住んだのが数年くらいしかないので一般的な感覚とは少しずれているかもしれませんが、自分の子供との関係を考えてみると、やはり「母親」の存在の方が断然大きいのだろうなと思います。
まずは、一緒に過ごした時間数が圧倒的に違いますし、直接的に世話してもらったという感覚もあるのでしょう。
それに引き替え、父親というのは、一般的に(僕の場合も)経済的に家庭を支えるという役割が大きいが故に仕事に時間を取られて、直接的に子供と係われる時間が少ない。
自分が仕事に就くまでの子供というのは、お金を稼ぐ大変さというものを認識できないので、父親より母親により感謝の気持ちを抱く子供が多いのも、ある意味仕方のないことだと思います。
もちろん、感謝されたいために子育てをしているわけでもないので、別に問題はないのですが、父親っていうのは、何とも「うら悲しい」存在だなと思うのであります。
小原啓渡
2008.06.07
妥協
「た」、「妥協」で。
「妥協」には、大きく分けて二つのパターンがあると思います。
相手との関係性で生じる「妥協」と、自分の中だけで生じる「妥協」です。
ディベートや交渉において、「折り合いをつける」上での妥協は、相手の立場などを考え合わせると「協調」ということにもなりますから、ある意味でコミュニケーション能力の一つだと思います。
それに対して、自分の理想や目標に対する妥協は、基本的に個人的な問題で、これは「現実」と「折り合いをつける」ことだと言えるかもしれません。
ただ、ここで注意したいのは、「現実」は常に変化している、あるいは変化させることができる、という点です。
つまり、現時点では難しくても1年後なら可能かもしれないということもあるので、「妥協」イコール「諦め」ではないということです。
何かを達成するために、ある時点で「妥協」することが必要な場合も多々あると思います。
「諦めないために(終わらせないために)、妥協する」という選択が、僕の場合は今までに何度もありました。
そうした経験から僕が大切だと思うのは、
「妥協することを怖れるのではなく、諦めることを怖れるべきだ」という事です。
小原啓渡