小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2008.05.17
ラクダ
「ら」、「ラクダ」で。
エジプトのピラミッドを、恥ずかしながら僕、「ラクダ」に乗って回ったんです。
これって、観光地にありがちな、例えばインドなら象、京都なら人力車に乗るのと同じですね。
通常なら、気恥ずかしいという抵抗感があって絶対にその手のものには乗りません。
ただ、この時は特別で、ギザのピラミッドに行く前に、エジプト人の知り合いの家に滞在していて、その間ずっと僕の足は「ロバ」だったんです。
僕用にロバが一頭あてがわれて、知人の息子と毎日ロバに乗って、砂漠に半分埋もれているような古代の遺跡を回ったりしていたので、「ラクダ」に乗るということに対しても抵抗感がなくなっていたのだと思います。
ロバには鞍(くら)がなく、お尻が痛くて、安定しない。
なかなか言うことも聞いてくれないので、最初のうちは、どんなに暑くても歩く方がましだと思いましたが、慣れというのは怖いもので、数日後にはすっかりロバくんに馴染んでいました。
その後、ピラミッドに行ったので、灼熱の中を自力で歩くということの方が僕には抵抗感があったわけです。
「ラクダ」にはちゃんと鞍が着いていて、歩き方もゆっくりなので、ロバと比べてずいぶん快適でした。
シーズンにもよると思いますが、もしピラミッドに行かれることがあれば、歩くのはかなりの体力を消耗するので、思い切って「ラクダ」に乗ってみるというのも案外いいかもしれませんよ。
小原啓渡
2008.05.16
寄り道
「よ」、「寄り道」で。
今日、沢木耕太郎さんの講演会に行ってきました。
(とても素敵な方で、全体的に話も面白かった)
自分の体験に基づいた2時間ほどのお話の中で、
「寄り道が人生の幹を太くする」ということを何度もおっしゃっていました。
ただ真っすぐに突き進むのが能ではなく、状況によって「寄り道」つまり、その時は無駄に思えるようなことをすることも、結果的に自分の人生を深く、豊かにするのだ、というような意味だと思いましたが、少し気になったのが、「目的地」の話がなかったことでした。
「寄り道」、あるいは「道に迷う」という限りは、「目的地」がないと「ただの「散策」「ブラブラ」あるいは、「ストレイシープ」だと思ったわけです。
「ブラブラすること」がダメだとは思いませんし、「道に迷う」こともある意味必要だと思います。
ただ、どこかを目指していて、そのプロセスで「迷う」「寄り道をする」のはいいとして、
目的地をどこに、何に定めるかを「迷う」人が多いという現実が問題なのではないかと思いました。
出来れば、その「目的地」の定め方に言及して欲しかったなと思った次第です。
僕は舞台や映画を見たり、こうした講演会を聞いても、
「僕なら、こう演出するのにな?」とか、
「僕なら、こうしゃべるのにな?」とすぐに考えてしまいます。
だから、このブログも批評的なことを書き始めると、どうしても辛辣になるので「あ」から順番に・・というようなベタなものにしています。
といいながら、今日は批評的な文章になってしまいましたが、まあ、流れとして、たまにはいいですよね。
小原啓渡
2008.05.15
夢
「ゆ」、「夢」で。
今日は行政関係の文化会議があり、その後、懇親会、二次回と続きました。
この会は、委員にとても面白い人達が集まっていて、もう2年目に入りましたが、とてもいいチームになっています。
もちろん会議では喧々諤々、真剣な議論が飛び交いますが、会議が終われば「さあ、今日はどこにご飯行きます?」という感じで、今日も沖縄料理屋で泡盛を飲みながら色々な話をしました。
今日は、なぜか「夢」の話で盛り上がりました。
「夢」と言っても寝てる時に見る「夢」
各々よく見る夢とか、不可解な夢、爆笑を誘う夢の話など本当に面白かった。
ただ、僕はほとんど年に1,2回しか夢をみない(実際は見ているのでしょうが起きた時憶えていない)ので聞き役専門でした。
いつもなら率先して話すタイプの僕が話さないので、
「小原さんは、夢見ないんですか?」と聞かれて、
「ほんとに見ないんですよ」と言うと、
「小原さんって、起きてる時にいつも夢見てるから、寝てる時は見ないんでしょうね」と言われました。
これって、やはり皮肉ですかね?
小原啓渡
2008.05.14
安物
「や」、「安物」で。
「安物買いの銭失い」などと言いますが、基本的に僕もそういう考え方ですね。
「いい物を長く持つ」というのが好きなタイプです。
誕生日のプレゼントなどで「何がいいですか?」と聞いてもらったとき、答えるのは、
「何でもいいけど、安物はイヤ」
まあ、これだけ聞くと、なんと失礼な!と思われて当然ですが、
僕にとって安物とは、「金額が低い」という意味ではありません。
例えば、プレゼントの予算が2千円だとして、僕にとって2千円の靴は「安物」でも、2千円のボールペンなら「高物」なわけです。
この辺を説明して、具体的にと言われると、「靴下」とかを希望したりします。
もちろん、高いからいいとは限りませんが、例えば、1万円のアメ玉とかあれば、何かその理由があるはずで、その理由を知るだけでも価値がありますよね。
「安物」から「プレゼントの選び方」のような話になってしまいましたが、プレゼントの選択に迷った時、とにかく予算の中で、最高レベルのものを選んでみるというのも、話題性とサプライズがあっていいと思います。
小原啓渡
2008.05.13
模倣
出張中なので短く、「も」、「模倣」で。
「創造は模倣から始まる」とよく言われれますが、ある意味では納得出来ますね。
ただ、僕は「絶対に模倣はしない」というのを創造における基本にしています。
情報があふれている今の時代、一人で無人島にでも住んでいない限り、意識するしないに関わらず目から、耳から情報がとめどなく流れ込んできます。
創造というのは、情報の新しい組み合わせからできるということも言えると思っているので、いくつの情報が組み合わさるかは別にしても、構成要素はすでに存在するものです。
言葉を換えると、「模倣」とも言えるわけですよね。
僕が「絶対に模倣をしない」という時、それくらいの気持ちでいて、ちょうどいいくらい「模倣」しているのではないかという思いが含まれています。
「模倣」を意識的に認めた場合、今の時代、それはただの「マネごと」あるいは「コピー」というところまで創造の質が低下してしまう気がするのです。
小原啓渡
2008.05.12
番外
今日は東京出張、夜の飲み会もあって、時間がタイトです。
京都から大阪に出てきて、今、東京での仕事のオファーを頂けるようになり、実際のところ、魅力的な案件も多いですが、現状の仕事量を考えると、手放しで引き受けることもできないので、悩みどころです。
英語で「We will see」という表現がありますが、時間が現実を見せてくれるでしょう。
小原啓渡
2008.05.11
名言
「め」、「名言」で。
気になる「名言」というのは沢山ありますが、父親から教わった「名言」をひとつ。
「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」
調べてみると、この俳句は作者が不明らしい(詠み人しらず)
有名な誰かが言った、ということで「名言」となることが多い中で、作者が不明でこれほど広く知られているものは少ない気がします。
それほど、この句が人にとって大切な資質を詠っているということなのでしょう。
先日、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」を観てきましたが、この中でも、
「人間が罹る最も危険な病」として「傲慢」ということを執拗に語っていました。
(主人公のヤマトタケルは、この病に罹り、敵を見くびり、致命傷を受けて死んでしまう)
心やさしく、勇敢で、正義感の強い「ヤマトタケル」でさえ、罹ってしまった「病」
他人ごとではないなと、改めて痛感しました。
他人を「上から目線」で見る、人の意見を聞かない、うぬぼれる・・・。
そうなってしまったら、自分の成長は止まってしまいます。
「へりくだる」ことは必要ないとしても、見せかけでない「謙虚さ」はとても大切で、成熟した人ほど「謙虚」だ(謙虚でない人は未熟である)ということなのでしょうね。
精神面で成長を続けたいと願う人にとっては、どんなに注意しても、し過ぎることのない「自己チェックポイント」だと思います。
小原啓渡
2008.05.10
無
「む」、「無」で。
「無」とは物理学、哲学、数学的にも難解な概念ですね。
僕なりに「無」を検証すると、一つの経験が浮かび上がってきます。
現役で照明家をしていた頃、琵琶のソロコンサートの照明をしたことがあります。場所は京都、とあるお寺の庭でした。
苔むした庭の古い梅の木の下で琵琶奏者が一人という、絵になるシチュエーション、照明家にとってはかなりやりがいのある仕事でした。
庭の景観を壊さないために、照明機材は客席から全く見えないように配置し、庭の土塀や木々、灯篭などを背景に、メインの梅の木とその下の奏者がぼんやりと浮かび上がるプランを立てて本番に臨みました。
本番前、辺りが暗くなり始めた頃、背景の土塀の上に満月が現れました。
演奏が始まり、控え目な明かりでこちらもスタートします。
すっかりと日が落ちて、僕は段々と苛立ち始めていました。
微妙にゲージ(明かりの強さ)を調整しても、頭の中で立てていたプラン通りの明かりにならないのです。
原因は、満月の明かりでした。
通常、照明をプランする時は、真っ暗な状態をベースに考えます。
僕は、本番が始まってしまってから、自分のミスに気付きました。
演奏の後半、僕は徐々に徐々に明かりのゲージを落としていき、全ての明かりをゼロにしました。
その時、まさに自分がイメージしていた、納得のいく明りが出来ていました。
演奏会は大成功に終わり、終演後、観客で来ていた舞台関係の知人数人に会いました。
その彼らが口をそろえて言ったのが、「今日の明かり、最高でしたよ!」
さんざん時間をかけて仕込んだ機材を全く使わずに、言われた賞賛の言葉でした。
僕にとって「無」とは、何も無いということではなく、「ありのまま」という事です。
何の手も加えず、満月の明かりだけで浮かび上がった庭の情景に、
僕は「無」を感じとりました。
「ありのままが、ありのままの状態で在ること」
これが僕の「無」の概念です。
小原啓渡
2008.05.09
湖
「み」、「湖」で。
僕にとって「湖」と言えば、ネパールの「ペワ湖」です。
現在は観光化が進んで、かなり水質も悪くなったと聞きますが、僕がいた当時は美しかった。
ヒマラヤ山系の名峰「マチャプチャレ」の全景が湖面にくっきりと写り込み、穏やかな水面がまさに鏡のようでした。
ポカラでとても変わった日本人女性に出会い、ペワ湖でボートを借りました。
彼女を最初に見たのは、僕の行きつけだった掘立小屋のチャイ屋、
長い黒髪と顔つきから日本人かと思いましたが、連れの外人男性と話している英語がネイティブな感じだったので、外国に住む二世か何かだと思っていました。
たまたま、僕が長期で借りていた部屋の隣に彼女たちが入って来て、日本語で話しかけられてから、すぐに友達になりました。
ボートで、色々な話をしました。
彼女は18歳から日本を出て、世界を渡り歩き、もう10年近くになるとのことでした。
世界を巡る目的は、「世界一」を見ることらしく、ネパールに来たのは世界一高い山、エベレスト見るため。
マチャプチャレが映る水面をオールで波打たせながら聞く、彼女の旅のエピソードは本当に面白かった。
もちろん、いい話ばかりではなく、強姦に襲われて殺されかけた事が2度あり、それ以来危険な国では、旅の道連れにボーイフレンドを作るのだと言っていました。(その時一緒にいたドイツ人もそうらしかった)
日本人の個人旅行が今ほど一般的でなかった頃の話、しかも女性です。
ネパールの雨季は、夕方になると晴れていた天気が一瞬にして激しいスコールに変わります。
数十分だけ強烈な雨が降り、またサッと晴れ間にもどります。
その時も、いきなり激しいスコールになりました。
鏡のようだった水面に大粒の雨が降り注ぎます。
一面に水しぶきが上がり、それはそれは幻想的で、全身に鳥肌が立ちました。
そして、その時彼女がとった行為も今、目の前で起こっているかのように鮮明に脳裏に焼き付いています。
彼女は強烈なスコールの中、全裸になり、見渡す限りの水面が水しぶきを上げるペワ湖に、何の躊躇も見せず、頭からダイビングしたんです。
ボートが大きく揺れて、僕はしばらくの間、放心状態でした。
その情景の美しさだけでなく、彼女の並はずれた自由さと強さに強烈な感動を覚えたからでした。
彼女は、今、どこで何をしているのでしょうか。
「世界一を巡る旅」を、今も続けているのでしょうか。
小原啓渡
2008.05.08
漫才
「ま」、「漫才」で。
ビートたけしさんや島田紳助さんらが活躍した「第一次漫才ブーム」といわれる時期もリアルタイムで経験した僕ですが、大好きだったのは、「人生幸朗・幸子」
もうお二人共お亡くなりになったので、知らない方も多いかと思いますが、
世相や流行歌の歌詞にイチャモンをつけて笑わす「ぼやき漫才」の第一人者でした。
若手が新しい漫才を次々に打ち出してくるなかで、人生幸朗・幸子の漫才はその世界観もキャラクターも、最後まで輝きを失っていなかったように思います。
「ネタ」「展開」「落ち」すべてがわかっていても笑ってしまう、まさに一級の「芸」でした。
「りんごは何にも言わないけれど、りんごの気持はよくわかる」(美空ひばり)
「りんごが物言うたら、八百屋のおっさん、うるそうてかなわんで!」
と、まあ、こんな感じですが、それに突っ込む幸子さんの「泥亀!」「鼻くそ!」
という甲高い声も、なぜかカワイくて、最後の決め台詞はいつも、
「責任者、出てこーい!!」
もし人生幸朗さんにこう言われたら、僕は喜んで出て行って、サインを頂いたと思います。
「ワンパターン」が「スタイル」となり、確固とした「世界観」を創り出す、
そしてそれを第一線で貫き通した素晴らしい「芸人」さんだったと思います。
小原啓渡