小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2008.04.27
投資
「と」、「投資」で。
一般的に「投資」というと、金融的なイメージが先行しますね。
僕も経済の動きを体感するという目的もあって、少しですが「株」をやっていて、
SPC(特定目的会社)を設立して証券会社と提携し、投資を募って小さい規模ながらコンテンツに関する「ファンド」をやったこともあります。
こんなふうに、色々自分なりにやってみて、改めて思ったのは、
「投資というのは、結局のところ何に投資するのかがポイントだ」という当り前の結論でした。
そして、何に投資するかということで、僕が一番効率がよく、しかもリスクがないと思うのは、
やはり「自分に投資する」ということだと思います。
(不労所得的な利殖が目的なら別ですが・・・)
自分に投資をして得た技能や知恵、経験は決して失うことがない、と言われますが、全くその通りだと思います。
ただ、自分に投資するといっても、かなり漠然としているので、どういった経験に、あるいは、技能ならどういった技能を習得するためにお金と時間を投資するのかを精査するのは必要でしょう。
全く意味がないとは思いませんが、例えば技能の場合、今の時代「そろばん」をやるよりは「パソコン」の方がいいだろうとか、そういうことはあると思います。
何かの本で読んだ事ですが、
「今までの人生で最もお金と時間を使った対象を仕事にすべきだ」というのがありました。
これって結構、的を得てるような気がします。
好きなことにはお金も時間も惜しまないという人は結構いて、当事者はこれを投資だとは思っていない場合が多いですが、意識している、していないに関わらず、結果的にはこれが大きな投資になっていることは事実で、リターン(お金だけでない)の可能性も高いはずです。
仕事はある意味で投資とも言えますから、たくさん投資したものを仕事にするというのは、かなりまっとうな考えのように思います。
そして、何より「好きなこと」には、没頭できますよね。
「好きなことに、思う存分時間もお金も投資して、それを仕事にする」
最も高いリターン(お金だけではなく)を得ている人って、実際、こういう人のような気がします。
小原啓渡
2008.04.26
手紙
「て」、「手紙」で。
すっかり「手紙」を書かなくなりました。
ほとんど、パソコンか携帯メールですね。
考えてみると実際ここ数年で、紙に文字を書くということ自体、驚くほど少なくなりました。(このブログも・・)
個人的には文字を書くという行為は好きな方で、(字は決して美しくないですが・・・)たまに年長の方から自筆の手紙を頂くと、心がこもっている感じがして妙に嬉しく、僕も自筆で返事を書くようにしています。
筆跡にはその人の個性というか、性格やセンスがにじみ出るので、自筆で手紙を書く場合はかなり気を使いますが、たまにはそういった緊張感も良いものです。
僕が中学生の頃は、「文通」が流行っていて、英語の勉強には最適だということで、海外の「ペンパル」をつくっている友人もいましたが、
今では「文通」も「ペンパル」もほぼ死語になってしまいましたね。
仕事に関する文章をパソコンで処理するのは今の時代仕方ないとして、例えば「ラブレター」とかも今は携帯で打つのでしょうか?
便箋や封筒を選ぶところから始まって、何度も何度も書いては破り、書いては破って「ラブレター」を書いた記憶のある僕としては、やはり、それくらいは自筆の手紙で書いて欲しい気がします。
なんか古いような気もしますが、実際やってみると、逆に新鮮なインパクトがあって、案外うまくいくかもしれませんよ。
小原啓渡
2008.04.25
月
「つ」、「月」で。
僕は25年ほど前、照明家としてこの業界に入りました。
直接のきっかけは、行きつけの飲み屋で知り合った照明家に誘われたという経緯がありますが、その時、二つ返事でその誘いに乗ったのには訳がありました。
その出会い以前、ネパールに半年ばかり滞在していた時の話です。
それまで全く山登りなどしたことのない僕が突然、富士山より高いところに立ってみたい、という単純な動機だけで、初冬、単独しかも軽装備でヒマラヤに登り始めてしまったわけです。
学生時代、「八甲田山死の彷徨」などで有名な小説家「新田次郎」が好きで、
とにかく彼の山岳小説はほぼ全て読破しており、山登りに関する知識だけは、まるで一流のアルピニスト状態で、4000M級の山くらいなら、さほど苦労なく登れるだろうと高をくくっていました。
まあ、こういう素人が一番怖い、というのは今だからこそ言えることで、当時は新田次郎の作品「孤高の人」や「銀嶺の人」の主人公きどりです。
ポカラを発ってから約2週間ほどの行程は、いつかどこかで詳しく書いてみたいと思っていますが、とにかく、色々な思い違いやミスが重なって、案の定、雪山で道に迷い、遭難しかけました。
その時、危機一髪、助かったのが「月の明かり」のおかげで、それ以来、何か「光」に関する仕事に就きたいと思い続けていました。
行きつけの飲み屋で、僕をこの業界に導いてくれた照明家の変なおじさんに会ったのも、(昨日のブログで書いたからというわけでもないですが)
今から思えば、すごい偶然だったなと思います。
小原啓渡
2008.04.24
チャンス
「ち」、「チャンス」で。
「チャンス」を英和辞典で調べてみると、
「機会・好機・見込み・公算・可能性」などが出てきますが、
なんと、最初に出てくるのは「偶然・運・めぐり合せ」でした。
確かに「偶然に」というのをイディオムで「BY CHANCE」と言いますし、
語源はラテン語の「偶然に落下すること」という意味から来ているらしいので、
一般化している「好機」といった意味より、「偶然」という意味に元来は近いようです。
「チャンスをつかむ」とか、「チャンスを逃さない」等という使い方をする場合も、ほとんどの人が「チャンス」を「好機」の意味で捉えていますよね。
ただ、僕が考える「チャンス」は、
「好機」というより「偶然」に近いような気がします。
「偶然をつかむ」「偶然を逃さない」というと、何となく、変な日本語のように思えますが、僕にはかなり本質的なことばに思えます。
つまり、「偶然」ということを、「単なる偶然」と捉えるか「意味ある偶然」と捉えるかという認識の違いだと思いますが、僕の考える「偶然」は明らかに後者です。
「偶然には、見えない大きな意味がある」
そう考えているので、「偶然」を軽いものとして流さない。
そこに何らかの意味、メッセージを読み取ろうとします。
僕にとっての「好機」(チャンス)とは、
この「偶然」を読み解いた先にある何か、だと思っています。
小原啓渡
2008.04.23
ダサい
「た」、今三周目ですが、今回は形容詞もありということにしているので、
行ってみたいと思います。「ダサい」で。
「ダサい」の語源は、「田舎」から(いなか、をタシャと呼んで)、
「タシャい」→「ダサい」となったというのが有力らしいですが、
根っからの田舎者で、田舎擁護派の僕としては
「ちょっと待ってよ!」と言いたいところです。
実際、田舎者だから「ダサい」というのは、納得できないですね。
そこで、新しい語源を自分で創ることにしました。
「ダメ!浅い!」というのが新説です。
(何度か続けて言ってみると、なるほどと思いますよ)
つまり小原説では、何事も「浅い」のが「ダサい」のだという考え方です。
例えば、ファッションなどに関して言うなら、
自分のスタイルというか主張がなく、ただ流行を追っているだけの人って、例え高級ブランドを着ていても、僕は浅い、つまり「ダサい」と思いますし、
言動においても、自分の考え方や価値観をしっかり持っていない「浅い」人が「ダサい」と思うわけです。
何だか、「田舎者」=「ダサい」に反発して、無理やりこじつけているような気もしますが、
実際のところ、僕が思う「ダサさ」って「浅さ」です。
まあ、語源なんてどうでもいいと言えばそうなんですが、
ひょっとして、何十年かたって、これが語源の定説になっていたりしたら、それはそれで面白いですね。
(な、訳ないですが・・・・)
小原啓渡
2008.04.22
尊敬
「そ」、「尊敬」で。
「尊敬する人は誰ですか」と聞かれれると、困ってしまいます。
「ニーチェ」とか、「サルトル」とか「アインシュタイン」は大好きですが、
「尊敬している人」かというと、そうでもあり、違うようでもあります。
彼らの残した仕事には大いなる尊敬がありますが、実際に会ってみれば、
これはいただけないっていう部分もあるのではないかと思うわけです。
つまり僕の場合、誰か一人の人を全面的に尊敬するというより、その人の部分に対して尊敬の念を持つといった方が的確ですね。
全能の人はいないということではなく、基本的に一人一人にいいところ、自分より優れているところがあると思っていて、その部分を尊敬する。
年下だろうが、部下だろうが全く関係なく、
尊敬できる部分を見つけて、その部分を軸にしてその人を見るようにしています。
ごくまれに、まったく尊敬できる部分が見つけられない人もいますが、
そういう人とはどんな関係であり、長続きしないですね。
長く付き合っている人たちは、みんな尊敬できる部分を持っていますし、実際、尊敬できる部分が多い人ほど、長く付き合っていきたいと思います。
一般的にいう「尊敬」に値しない、ささいに思えるようなことであっても、
僕が「すごいなぁ」と思えば、それが僕の「尊敬」です。
小原啓渡
2008.04.21
戦争
「せ」、「戦争」で。
僕は当事者として実際の戦争を知らない世代ですが、
言うまでもなく「戦争」には反対です。
ベトナム戦争の真っただ中、僕が初めてフォークギターを持ち、最初に覚えた曲は、「戦争を知らない子どもたち」でした。
そして今や、『「戦争を知らない子どもたち」を知らない子どもたち』の時代です。
ベトナム戦争に関しては思想的な影響を、イランイラク戦争にはある意味、直接的な影響を受けました。
忘れもしない1980年の9月、僕はイラクのサマラにある日本企業のプラントに約1年間、大学を休学して仕事に行く事が決まり、出発まであと2週間ほどになっていました。
当初は、大学のカメラ部の親友と一緒に行こうと決め、約半年間、集中的に二人でアラビア語の勉強をやりました。(京大のアラビア語ゼミにも通いましたね)
その甲斐あって2人とも採用試験にパスしたのですが、その後の健康診断で、友人の方に先天的な肝臓病があることがわかり、結局イラクに行くのは僕だけになっていました。
日程も確定し、友人たちが送別会までやってくれて、後は出発を待つだけの状態でした。
ところが、いきなりでしたね。
突然、イラクがイランを空爆して、イランイラク戦争が勃発してしまったわけです。
(僕が赴任する予定だったサマラは爆撃をうけたバクダットから約100キロしか離れていなかった)
当然のことながら、日本のプラントは即座にイラクからの撤退を決定し、
僕の計画は、すべて水の泡と消えました。
今となっては懐かしい思い出ですが、若い頃の僕にとって、一つの大きな転機であったことは確かで、
当時、世界的な報道カメラマン「ロバート・キャパ」に憧れていた友人も、
病気が発覚したことで将来の方向性を変え、卒業後、医大に再度入学して、
現在は精神科の医師をしています。
小原啓渡
2008.04.20
スペイン
「す」、「スペイン」で。
「スペイン」と言えば、「ガウディ」、「サクラダ・ファミリア」ですよね。
1882年に着工して、現在でも建設中。
完成予定が2026年頃といいますから、150年近いプロジェクトということになります。
実際のところ、既にガウディーの設計図や模型は消失しており、推測に基づいた建設が続いていることを知った時は、残念な気もしましたが、
考えようによれば、だからこそ素晴らしいとも思います。
自分の死後何十年も完成に向けて続けられていく仕事など、
そこに余程の価値がない限り、有り得ないし、
アート作品は、「未完」としてそのまま残る場合がほとんどです。
ただ唯一、僕が「サクラダ・ファミリア」を訪れて残念だったのが、
建設中の景観です。
創作のプロセス自体を一つのアートとみなす考え方などを、
「ワーク・イン・プログレス」と言いますが、
そういった観点からすると、まさに現代の建築現場、といった状況はできる限り見せて欲しくないですね。
建設中の部分的な見苦しさが、全体の美しさを損なってしまうというのは、
仕方がないのかなとは思いつつ、やはり残念です。
おそらく、完成を急ぐ意図や建設コストの問題などがあるのだろうと推測できますが、そこのところは頑張ってほしいなと思います。
だからこそ、工事用のクレーンもシートも柵もない、
完成した「サクラダ・ファミリア」を、必ず、見に行きたいと思っています。
小原啓渡
2008.04.19
進歩・進化
「し」、「進歩と進化」一緒に。
「進化」とは、ダーウィンの「種の起源」に代表される、生物が進化するメカニズムを説明する理論(進化論)として一般化した言葉ですから、
社会的、文化的な事項に用いる「進歩」とは、根本的に違うと思うのですが、
かなり混同されて使われている気がします。
ところで、
「社会は進歩しているが、人類ははたして進化しているのか?」
という疑問があります。
「社会は進歩している・・・」と一応書きましたが、
実はこれさえも、「あやしい」ですね。
数百万年に及ぶ人類の歴史を振り返ると、
確かに、私たちの日常生活は「便利・快適」になりました・・・・。
「じゃぁ、それ以外、他に何がある?」
「たとえば、安全になったとか?」
いやいや、確かに猛獣に襲われる危険は無くなったけれど、銃の所持が自由な国もあるし、無差別テロや核戦争、交通事故や環境汚染のことなどを考えると、
太古の昔より現代社会の方がずっと安全だとは、どうも言い難い・・・・。
・・と、色々考えているうちに、だんだん怖ろしくなって来ました。
「ひょっとして、人類の進歩って、生活が便利・快適になっただけ????」
「いやいや、そんなはずはない!」(そう思いたくない)
でも、逆に「やばい」ことは、次々に思い浮かんで来ます。
環境破壊の問題などに至っては、人類絶滅のカウントダウンが始まっているとさえ言われています。
確かに、文明は、社会は、政治は、経済は、教育は、医療は、科学技術は、
日進月歩で、「進んで」きました。
しかし、
不適当な方向に「進んで」きた、とは言えないでしょうか?
「進め」ば、どんな方向に進んでも、「進歩」というのでしょうか?
今後もその「方向」に間違いはないのでしょうか?
それを見極められたとき、
本当の意味で人類は「進化」した、と言えるのかもしれません。
小原啓渡
2008.04.18
桜
「さ」、「桜」で。
「さくら」の季節が過ぎようとしています。
「桜」には、たくさんの思い出があります。
以前少し書きましたが、幼少の頃僕は人にあずけられて育ちました。
その家の前庭に南天と、山桜の木が一本ありました。
南天の赤い実、桜の白い花(その桜はピンクではなく、白でした)は、
子供の目にも、山村の四季を感じさせるに十分なインパクトがありました。
その桜を大切にしていた僕の「育ての親」が、相次いで亡くなった年、
まるで二人を追うように、その桜の木も枯れました。
死産した最初の娘も「さくら」という名前です。
僕にとって「桜」は、ほろ苦い記憶と共にある、
「はかない花」です。
小原啓渡