小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.04.17

番外

大体このブログを書くのに、30分から長いときで1時間くらいかかります。

今日はその時間さえない詰め詰めのスケジュール。

まあ、そういう日も、たまになら歓迎です。

小原啓渡

2008.04.16

コミュニティー

「こ」、「コミュニティー」で。

「コミュニティー」とは、同じ地域に居住して利害を共にする、いわゆる「共同体」のことですが、
このことばでまっ先に思い浮かぶのが、デンマークにある2000人程の、とあるコミュニティー。

そのコミュニティーの名前や場所など、今のネット時代、調べれば分かる事だとは思いますが、
そこに僕を連れて行ってくれた友人が、
「最近、単なる物珍しさで観光にくる外国人が多くて辟易している」というようなことを苦々しそうに言っていたので、一応ここでは伏せておくことにします。

そこは、湖を中心にしたかなり広大なエリアで、城壁で取り囲まれており、門の入口には撮影禁止の看板が掲げられていました。

歴史的には、軍の駐屯地だったこの場所から軍隊が移動した1990年代に、
ヒッピーやアーティストたちがこの地に入り込み、コミュニティーを形成した。

その状況を国も面白がり、期間限定で承認し(この辺がまず日本では考えられない)、電気や水道を供給した。

期限が過ぎてもコミュニティーが立ち退かないので、その後、何度も国との争いが続いたが、現在も存続している。

現状に関しては分かりませんが、僕がこのコミュニティーを訪ねた頃は、
まさに、いい意味での「治外法権」「解放区」でした。

実際にここに住んでいた友人の話では、国の法律はここでは適応されず、コミュニティーのルールがあるだけ。

このエリアに住みたければ、自由に自分で家を造って住めばよく(実際、湖畔に手作りっぽい家がたくさん建っていた)、菜食レストランやカフェ、雑貨屋や美容院、軍が残していった建物をリノベーションした美術館さえ出来ていて、驚くことにそれらが全てハイセンス。

そのコミュニティーの中だけで走っている独特な自転車があり、湖畔ではみんな全裸で水浴びをしていて、僕の滞在期間中にはボブ・ディランのコンサートさえありました。

全く、無政府状態であるにも関わらず、一つの町が穏やかに動いている状態を目の当たりにして、僕は本当に驚愕したのでした。

過去僕が訪れた国の中でも、デンマークは大好きな国の一つです。

理由は、閉ざされた冬から一挙に目覚める緑(木々や草花)の、爆発的なエネルギーの美しさと、
この「コミュニティー」の存在です。

小原啓渡

2008.04.15

経験

「け」、「経験」

そこそこ年齢を重ねてきて思うのは、「経験」の価値ですね。
というより、年下のスタッフに自信を持って言えることは、
自分が経験から学んだことだけかもしれません。

歳を重ねる価値って、他に何かあるのでしょうか?
正直言って僕には他に思い着きません。

つまり、人間性やセンス、特別な技能ということを別にすると、経験から学んだことを伝えない、経験を活かした行動が見えない年長者に敬意を感じる年少者はいない、ということになります。

単なる情報、単なる知識を得るだけなら、今やコンピューターで事は足ります。

歳が上だからというだけで、自分のポジションは安泰だ(自分は偉い?)、という時代は終わりを告げつつあると思います。

もちろん、生きているということは、一瞬一瞬が経験です。
そういう意味では、
「生きた時間=経験量」とも言えるので、儒教的な教義における「年長者を敬う」という倫理感を否定するつもりはありません。

長く生きれば、それだけ多く経験を積む機会(時間)があるわけですから、20年生きた人と40年生きた人では、その密度が同じなら、当然長く生きた人の方が、経験の数、内容ともに豊かなはずです。

ただ、経験の数が全てでは無い、という事も理解しておく必要がありますし、
たとえ同じ経験をしても、個人の感性や考え方の違いから、同じ認識がされるとは限らないので、経験の内容に優劣をつけることもできません。

要は、数や内容ではなく、自らの経験、経験から学んだことを何らかの形で年少者に伝えることが、年長者の重要な役割ではないかということです。

そして、自らの経験を深く検証し、血肉にしてきた人というのは、たとえ何かを語らなくても、周囲に強い影響力(安心感など)を与える存在になることが多い。

年長者は、「年功序列」の社会システムが崩壊しつつある今だからこそ、
「経験」の意味を反芻し、年少者との関係性を今一度チェックすることが大切だと思います。

さもなければ、自分の居場所を見失い、自己喪失の危機に瀕する可能性さえあるということを、しっかりと認識する必要があると思います。

小原啓渡

2008.04.14

愚直

「く」、「く」のつくことばが思い浮かばないので今日は「ぐ」、「愚直」で。

「愚直」を、プラスの意味で使う場合は「正直」とか「誠実」ということになるのでしょうが、マイナスの意味では「愚か」とか「頑固」というふうになりますね。
ただ、両方の見方を一つにすると、「愚かなほど正直」となるので、結局のところ「正直」が強調されて、「美徳」ということになるのでしょうか?

それでは、「美徳」と捉えた場合、、反意語は何なのか?
さしあたり、「嘘つき」「いいかげん」「飽き性」とかが入り混じった感じで、ピタリとヒットすることばが見当たりません。

ということは、一応「美徳」の領域に入ってはいるけれど、揶揄的に用いる場合もあるので、やはり「悪徳」にも「美徳」にもなるという部類の言葉だということになります。

こういう書き方をすると、何だかこねくり回している感じがしますが、まさに自分の経験においても、この言葉はこねくり回されてきた経緯があります。

10代後半から20代前半の頃、僕は自分が持ち合わせた性格の一つ「飽き性」という側面に悩んでいました。

好奇心が強く、何にでも興味を持つのですが、その分飽きるのが早く、何か一つのことを「愚直」に続けることができない。

「こんなことでは、何一つこだわりを持って取り組めるものを見つけられないのではないか」そんな不安を抱えていました。

その反面、「色々なことをやってみなければ、本当に自分が見つけたいものにも出会えない」という思いもあって、「愚直」に対する憧れと懐疑のはざまで行ったり来たりの状態でした。

そんな僕が、自分の性格を否定することなく、思いを吹っ切る事ができたのは、
「僕は、こだわらない事にトコトンこだわってみよう」
「こだわらないという事に愚直でいよう」と心に決めた時でした。

これって、今から考えるとある意味「詭弁」ですね。

しかし、自分の気質に悩んでいた当時の僕にとっては、
確かな「救い」になりました。

そして、こだわらない事にこだわり続けて四半世紀、
いつの間にか、「生き方」に関してだけは、決して人に引けをとらない「こだわり」と「愚直さ」を持った自分になれたように思います。

もし若い方で、現在同じような悩みを持たれてる方がいれば、僕のアドバイスは一つです。

「他の何にでもない、自分自身に愚直でいて下さい」

小原啓渡

2008.04.13

競争

「き」、「競争」で。

「競争」が好きな人もいるかと思いますが、僕は嫌いです。
できれば避けて通りたい気持ちはありますが、現代社会の構造上、好む好まざるに関わらず競争しなければならない事態に陥ることが多いというのが現実です。

資本主義社会で生きている限りは仕方がないと諦める気持ちと、理想的な社会を思い浮かべる気持ちが入り混じって複雑ですね。

ただ、今の社会構造が変わらなかったとしても、その中で生きる人間一人一人の考え方が変われば、大きな変革が起こるのではないかとも思います。
(希望的観測ですが・・・)

例えば、「ライバルは自分です!」と誰かが言うと、
ちょっと茶化して「かっこいいー!」とか、「キザ?!」って感じの反応をしてしまいがちですが、
実は、この言葉の本質には重要な意味があるのではないかと思っています。

誰かとではなく、今の自分と競争する。
何かとではなく、自分と戦う。

確かに、誰しもこういった側面を持って葛藤しているとは思いますが、
現状として表れているのは、政治、経済、教育に至るまで、他との「競争」を煽る社会です。

自分のモチベーションを上げるために競争相手を自ら設定したり、
全体における自分の位置を確認するためにだけに順位を使う、といった能動的な捉え方ができれば別ですが、
単純に勝敗や順位にこだわり始めると(特に当事者ではなく他者が)、社会が根本から歪んでくるように思います。

自らに挑戦して打ち勝つこと(例えば自己新記録の達成)にこそ意味があるという価値観がもっと浸透し、
誰もが「自分のライバルは自分です」と照れなく言い切れる社会になれば、
そしてその言葉を素直に受け入れることができる社会になれば、

今人類が抱える問題の多くが改善していく気がします。

小原啓渡

2008.04.12

過労

「か」、「過労」で。

「過労」ぎみなので、今日は早く休みます。

小原啓渡

2008.04.11

大阪

「お」、「大阪」で。

大阪に来て約3年になります。

兵庫の田舎で生まれ育ち、その後京都に住んでいたので(ずっと関西)、さほど違和感なく大阪に馴染めた気がしますが、関東や他の地方から来られた方はどうなんでしょうね。

やはり、大阪って独特の文化が根付いているので、馴染みづらいのでしょうか?

ところで、
「大阪で生まれた女」という歌の中で、
「大阪で生まれた女やさかい、東京へはようついて行かん・・」という歌詞がありますが、
なぜ東京にはついて行けないのか、と何となく不思議に思っていました。

先日、「大阪で生まれた女」の子で、結婚して東京に住んでいる友達と久しぶりに会ったとき、
「もう、東京はいやや」としきりに訴えるので、理由を聞くと、
職場で「ボケ」ても、誰も「突っ込んでくれない」ということでした。
しかも、しらけた感じで受け流されて、その場自体が冷たい雰囲気になるとのこと。

「こんなんじゃ、人間関係がぎくしゃくして、やってられへん!」と真剣に悩んでいました。

この話を聞いて最初は笑っていましたが、
よくよく考えると、僕も常に「突っ込み」を想定した「ネタふり」で「つかむ」というコミュニケーションのやり方がこの3年間ですっかり身に着いていて、
こりゃ、他人ごとではないなと思った次第です。

「大阪で生まれた女」が東京について行けない理由って、
ひょっとすると「突っ込み」がないから? と思ったりするのですが、
まさか、そんなわけないですよね!

小原啓渡

2008.04.10

エンタメ

「え」、「エンタメ」で。

「エンタメ」とは「エンターテイメント」の略語ですね。

以前から「エンタメ」か「アート(純粋芸術)」か、といった議論がありますが、
僕の考えではこの比較基準って、
「私と仕事とどっちが大切なの?」というのとよく似ている気がします。

つまり、「右か左か」ではなく、「右か上か」みたいな感じ。

「エンターテイメント」に対しては、「ディスエンターテイメント」あるいは「ノンエンターテイメント」(こんな英語はないと思いますが・・・)、
「純粋芸術」に対しては、「不純芸術」(こんな日本語はないと思いますが・・)が、本来対比されるべきものだと思います。

エンターテイメントとは一般的に「人を楽しませるもの」ということですから、
「人は何を楽しいと思うか」をまず規定しなければ、無数の抽象言語と同様に誤解を招くことになります。

バイオレンス映画を見て楽しい人もいれば、忌々しいという人もいる。
アニメを見て楽しいという人もいれば、くだらないという人もいる。
列車の時刻表を見てるのが何より楽しいという人もいれば(実際僕の友達にいます)、そんなもん見てて何が楽しいねん、という人もいる。

つまり、エンターテイメントであるかどうかは全く個人的な問題で、ジャンルとしてくくるためには、「エンターテイメント性」が一般的にみて「高いか低いか」(それを楽しいと思う人が多いか少ないか)という相対的な判断をする以外にないという事になります。

「純粋芸術」に関しても同じことで、芸術とは何かという規定ももちろん必要ですが、「芸術性」が「高いか低いか」という問題なのだと思います。

つまり、何が言いたいかというと、例えば演劇を批評する場合、「エンターテイメント性」と「芸術性」を別々に考えるべきではないかということです。

そうなると、
「エンターテイメント性は低いけど、芸術性は高いよね」
「エンターテイメント性は高いけど、芸術性は低いよね」
「エンターテイメント性も低いし、芸術性も低いよね」
「エンターテイメント性も高いし、芸術性も高いよね」と、大きく4つに分かれてくることになります。

そこで、目指すべきところはどこかとなると、やはり、
「エンターテイメント性も高く、芸術性も高い」ということになるのではないでしょうか?

「エンターテイメント性と芸術性は相容れない」と思われる方がいるなら、それはあまりに作品を見ていないと言わざるを得ません。

つい先日、びわこホールで「ピナ・バウシュ」の「フルムーン」という公演を見ましたが、これも両要素を兼ね備えた作品でしたし、実際のところ、世界的に評価されているアート作品の大半は高いエンターテイメント性(人を楽しませる要素)を持っているといって問題はないと思います。

「創造活動はすべてプロセスである」といっても過言ではないでしょう。
そういう意味でも、より高いレベル、より高い理想を追い求める姿勢を持ち続けることが大切なのではないでしょうか?

小原啓渡

2008.04.09

「う」、「海」で。

先月、コンドルズ「ブラジルツアー」のオフ日にメンバーと「海」に出かけました。
僕たちが行ったビーチは、ブラジル人からすると「あまり良くないよ」部類に属するところだったのですが、何が何が、素晴らしかった。

広く、長くてきれいな砂浜、
(ゴミひとつ落ちてなくて、歩くたびにキュッキュッと音がする「鳴き砂」)
サーフィンができるほどの波、(みんなでボディーボードやりました)
そして何より、浜全体の雰囲気が最高レベルの素敵さでした。

「ビーチ文化」ともいえるものが生活の一部になっているのか、ビーチで過ごしている人たちがなんだか様になっていてかっこいい。
ファミリーな雰囲気というより大人な感じで、老若男女、誰を見ても絵になっている。
(日本で見かける「イモ洗い」のような混雑もなく、うわついた雰囲気が全くない)

以前、グアムでスキューバダイビングの免許を取って、一時期色んな海に行きましたが、スキューバのスポット(水の透明度や海中の生態などが重要)とは違う意味で、ビーチとしてとても満足できました。

今回、ブラジル人が「いい」というビーチに行けなかったのは残念ですが、彼らが薦めるビーチって一体どんな感じなのでしょう?

もし機会があれば是非体験してみたいと思います。

小原啓渡

2008.04.08

偉業

「い」、「偉業」で。

「偉業」という言葉で、僕が思いつくのは「相対性理論」をはじめとしたアインシュタインの仕事ですね。

僕は元来文科系で、物理学はもちろん「相対性理論」の学術的理解に関してはまったく素人の域を超えませんが、あの舌をペロンと出した有名な写真がとても気に入っていて、本屋でアインシュタイン関連の書籍を見つけるとついつい手にとってしまいます。

彼の理論の「革新性」、
科学的な側面のみならず宇宙の捉え方自体を根本からひっくり返したパラダイムの大転換は、
人類に劇的かつ重要な影響を与えたと思います。

「物質は光の取る一つの形にすぎない」

彼が証明したこの本質を考えるだけでも、アインシュタインはが単なる物理学者ではなく、偉大な哲学者でもあったと断言して問題はないでしょう。

そして、歴史に残る偉業を成し遂げたにもかかわらず、
「この世の本質を解き明かしちゃった」って感じで、
一抹の奢りも、虚栄も感じさせない、純真な子供のように、ペロリと舌を出したあの写真。

いやはや、憎らしいほど素敵です!

小原啓渡

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