小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.04.07

番外

今日は結婚退社するスタッフの送別会でした。

韓国料理を食べて、二次回は「卓球」でした。
卓球なんて一体何十年ぶりか、
思い切り汗をかいて、楽しめました。

女性の場合、どうしても結婚・出産などで退社を余儀なくされる場合が多いですが、さみしいですね。

幸せになってほしいと思います。

小原啓渡

2008.04.06

「あ」っ、一応「わ」で二回り目が終わりなんですね。(「わ」以降「ん」まで無し)

さあ、三周目をこのままいくか、少し変えるか。

今まで、「名詞」で来たので、出来ればこのままいきたいところですが、
無理やり言葉を見つけて書くのも嫌なので、ちょっと広げて、三周目は「形容詞」も含む、ということにしたいと思います。
「あ」なら、「暑い」とか「浅い」とか。

今日は三度目の「あ」、今まで通り名詞で「雨」。

「晴耕雨読」という言葉がありますが、
最近とみに、自然に囲まれ、自然に沿ったサイクルの生活に憧れます。

夜明けと共に目覚め、晴れていたら仕事(野良仕事?)、雨なら勉学に勤しむ。

日の出から逆算して、夜は早めに寝床に着く。

これって、現代ではとても「贅沢な生活」の部類に入るのではないでしょうか?

雨だろうが、嵐だろうが仕事を休めないというのが通常で、夜早く寝るのも意外に難しく、朝は目覚ましのベルで無理やり短い睡眠から起こされる。

科学と経済の発展で現代社会は、ずっと豊かになってきたはずなのに、
昔の質素な生活の方が、より豊かに思えるのは僕だけでしょうか?
(「無い物ねだり」的な部分があるとしても・・・)

雨が降ろうが晴れようが、ほとんど何の影響も受けない生活ってどうなんでしょうね?

雨音にじっと耳を澄ましたり、雨に打たれる木々を眺めたり、
できれば、雨を楽しむ精神的余裕のある生活を送りたいものです。

小原啓渡

2008.04.05

ワイン

「わ」、「ワイン」で。

以前「グルメ」というタイトルで少し書いたと思いますが、飲食に関する分野はどちらかというと「苦手」です。

そんな僕が、「通」がひしめく「ワイン」に関して書くのは少々気が引けますが、少しだけ。

「これ、いいワインですよ」と勧められて飲む場合、
僕がいつも感じるのは「そうか、これがいいワインなんだ」というもの。
おいしいと言われると確かにおいしい気がして、味をしっかりと記憶に焼きつけるように味わって飲むのですが、正直なところ、どこかその感覚に頼りなさを感じてしまいます。

日頃いろいろなワインを飲まれている方には、その違いがよく分かるのでしょうが、僕のようにほとんど飲まない(アルコール自体を)者にとっては、今一つピンとこない。

以前スイスのローザンヌに行ったとき、現地のプロデューサーのご厚意で、レマン湖周辺のワイナリー巡りをさせて頂いたことがあります。

スイスワインというと日本ではあまり知られていませんが、実はかなり上質なものだというお話を伺いました。スイスでは国内生産されるワインのほとんどを国民が消費してしまうので(ワインの消費量は世界でも5本の指に入るらしい)、あまり海外に出回らないということでした。

背景にアルプス山系を望む美しいレマン湖のほとり、数ある古いワイナリーで何種類ものワインを試飲させて頂いた時は、さすがの僕も、一つ一つのワインの違いをはっきりと認識することができました。
(飲み比べをしなければ違いが分からないというのは寂しい話ですが・・)

ただこの時も、「この味が好き」とは言えても、
「このワインの方が高級」というような判断はできませんでした。

ソムリエの中には、産地さえ言い当てる人がいると聞きますが、本当にワインが好きなんでしょうね。

ワインには歴史的にも色々なエピソードがあるようですし、色々な意味でかなり奥が深そうです。

将来、是非挑戦してみたいアイテムです。

小原啓渡

2008.04.04

老人

「ろ」、「老人」で。

「老後の経済的安定を基準に今を生きている人を、老人という」

何かの本に書かれていた言葉です。

「若くても老後のために今を生きている人は老人だ」
「本質的に老いるというのは単に年齢を重ねるということではなく精神的な問題だ」
というような意味だと思いますが、共感できる部分はありますね。

確かに、福利厚生に関する国の施策(例えば年金制度)に問題があるなど、
「老後」=「不安」というような通念が増長されている傾向はありますし、
不安が大きければ大きいほど、それに備えようとする心理が強くなるのも分かります。

ただ、これらの不安の大部分が「経済的な問題」にあるということに僕は切なさを感じます・・・

僕にはなぜか老後の不安というものがありません。
決して潤沢な貯金や資産があるわけでもないし、安定した仕事に就いているわけでもありません。
住んでいるマンションも賃貸、会社を経営しているといってもこのご時世です。
「三年先の事さえ読み切れない」というのが実際のところでしょう。

にもかかわらず不安がないというのは、何故なのか、
少し自分自身を探ってみようという気になりました。

まず考えられるのは、自分でも呆れるくらい「楽観主義」であるということ。
「まあ、なんとかなるやろ」というお気楽な性格。

このブログのタイトルにもなっている「諸行無常」、つまりあらゆるものは変化し続け、常なるものはない、という概念がなぜか染み込んでいて、変わらないことを期待したり、それにしがみつくということもない。

つまり一般的にいわれる「安定」(不変)といったものは、有り得ないと思っているので、物質的なものが心(精神)に影響を与えるとしても、あくまで主役は心ですから、状況に左右されない「心の充足」ということにしか、基本的に興味がない。

そして何より、「自分がいつ死ぬかなんてわからない」という考えが定着しているので、「今」を大切にしたいという思いが異様に強い。

あと、もう少し現実的な話で言うと、「借金」をしないということがあるかもしれません。
家や事業所(劇場など)は賃貸もしくは委託、ローンで何かを買うということをしないので、会社も個人も全く借金がない。
(借金がなければ、お金に追いかけられることがない)
基本的に身の丈を考えて、収入に応じた支出計画を立てるのでさほど無理がない。

まあ、こんなところが老後の経済的不安から僕を開放している要因なのかなと思います。

ところで、僕の父親の老後はというと、
80歳を過ぎた今も田舎のあばら家で日がな「面打ち」(能面彫り)をしています。
食事なども自給自足的で、生活は質素ですが、僕からするとかなりいい感じです。

たとえ、物やお金がなくても
「豊かで静かな精神」を持った「仙人のような老人」になる。

これが僕の理想です。

小原啓渡

2008.04.03

檸檬

「れ」、「檸檬」で。

レモンをあえて漢字で書いたのは、梶井基次郎の小説「檸檬」に関して少し書きたくなったからです。

確か中学時代、国語の教科書でこの小説のくだりを読んだと思うのですが、文章の繊細さに比べ、何とも無骨な感じのする梶井基次郎の顔写真が強く印象に残っています。

彼自身が結核で早世していることを考えると、小説の主人公は彼本人だったと察することができますが、
肺病で熱を帯びた手で感じ取った檸檬の冷たさに関する描写には、胸を打つ切ないリアリティーがありましたね。

田舎の高校から京都に出てきた時、清水寺や金閣寺といった観光名所以外で僕が知っていた数少ない情報の一つが「丸善」でした。
主人公が、時限爆弾にみたてて檸檬を置いて立ち去った文具店(書店)の名前です。

京都に住み始めてまっ先に行ったのも「丸善」、
ブックカバーのシンプルなデザインが好きだったこともあり、本を買うなら「丸善」と決めていました。

「檸檬」に出てくる当時の丸善が、「アートコンプレックス1928」と同じ町内にあったということを知った時も、妙に嬉しかったですね。

残念ながら「丸善」は数年前に閉店し、もう京都にはありませんが、
僕の記憶に残っている、思い出深い場所の一つです。

小原啓渡

2008.04.02

ルール

「る」、「ルール」で。

「ルール」ってすっかり日本語のように定着してますが、訳すとどうなるんでしょうか?
法律から常識といわれる社会規範にいたるまで、「ルール」は広義に用いることができますが、「規則・規定・規約」あたりが一般的でしょうか。

僕が個人的な思いで訳すなら「ものさし」ですが、「暗黙の了解・合意」っていうのも理想ですね。
もちろん、社会にルールが必要なのは十分理解できますが、ルールに頼らなければ安全と機能を維持できない社会や組織ほど未熟な気がします。

また、ルールが多ければ多いほど、人は自分で考え、判断するということをしなくなる傾向があると思います。

たとえば、「赤信号は止まれ、黄信号は注意、青は進め」というような、僕が子供の頃に教えられたルールがありますが、車が全く通っていない時でも、赤信号で止まっている歩行者を見かけるのは日本くらいでしょう。

日本人はルールを守る真面目な気質を持っている、という意味では誇るべきだとは思うのですが、人間はロボットじゃない、というのも考えるべきだと思います。
(ロボットはプログラミングされた通りの動きしかしません。つまり、ロボットほど真面目な存在はない)

ただ、信号のルールに関していうなら、赤だから止まるというのではなくて、交差点は事故の危険性が高いので十分に注意する、ということが第一義のはずです。
従って、青であっても注意して渡る必要があるわけで、ルールにさえ従っていればそれでいいというものでもないですよね。

状況に応じて、自分で考え、判断することを助ける「ものさし」として「ルール」がある。

チェコのプラハに行ったとき、町中に信号がほとんどなくて驚いた記憶があります。
道を渡ろうとすると、車がちゃんと止まってくれる。
これって至極当たり前のことなんですが、とても気持ち良かった。

「すべての交差点に信号機が設置されるような社会には住みたくない」
これが僕の思いです。

小原啓渡

2008.04.01

旅行

「り」、「旅行」で。

「旅行」、特に海外旅行はいいですね。

非日常な環境が脳を刺激します。

日本の常識が全く通用しない国もあるので、疲れることもままありますが、僕の場合はそれを逆に楽しんでしまえるところがあります。
この部分がないと、先進国以外に行くのを躊躇してしまいますよね。

国内は学生時代にバイクでツーリングしてたのと、照明屋さんをしている頃の数年間、色ものの芝居で全国つづ浦々「どさ回り」をしていたので、行っていない都道府県は青森くらいかな。
海外も数えるのが面倒なくらい行きました。

8割がた仕事がらみなので、思い通りにいかないこと、色々な障害やそれに伴うストレスも自由旅行より多いわけですが、懲りることなく、また行きたくなります。

自分の固定観念や奢りを打ち砕かれることで、自分をリセットできる。
リセットされた自分に、新鮮な情報が流れ込んでくる。
自らを再創造するのに、旅はとても有効だと思います。

そういった意味でも、日本とは社会状況が大きく異なる国を、できるだけ長く旅することが素敵な気がします。

人は、どんなに気をつけていても、日常にまぎれ、狭い常識にとらわれ、保守的になっていきます。
もちろん、そこに安心と安定を求める価値観を否定する気はありませんが、少なくとも僕はそうした生き方を選択しない。

たとえそれがハードでも、一瞬一瞬をビビットに生きていければと願っています。

小原啓渡

2008.03.31

ラスベガス

「ら」、「ラスベガス」で。

ラスベガスは今や、ブロードウェイをしのぐショービジネスのメッカです。
ブロードウェイのミュージカルは最近、ディズニー系を除いて全体的に小ぶりになっている印象がありますが、ラスベガスはますます盛んですね。

僕も何度かショーを観にラスベガスに出かけています。

最近ヒットしているラスベガスのショーは劇場設営型といって、作品のための専用劇場を造るので、他で公演することが基本的にできません。
DVDなどの作品映像も出さないので、目的のショーを観るにはラスベガスに行くしかないわけです。

ネバダの砂漠に位置するラスベガス、この街がどういった経緯で形作られていったのか、
僕は大阪松竹座が映画館として最後に上映した作品「バグジー」という映画を見て知りました。

バグジーとは、実在したギャング、ベンジャミン・シーゲルの蔑称、
「害虫・虫けら」といった意味。
主役はウォーレン・ビーティー、1991年のアメリカ映画です。

バグジーが愛した売れない女優バージニア・ヒル(アネット・ベニング)のニックネームをとって、
彼がベガスに初めて建てたカジノ付ホテルが「フラミンゴ」
(僕もこのホテルに泊ったことがあります)

ヒルとの愛憎劇も含め、一人の男の生きざまを描いた、心に残る映画です。

また、浅田次郎の小説「オーマイゴッ!」もお勧めです。

大前剛という主人公の名が英語で「オーマイゴッ」と聞こえることを発端に、様々な物語が展開していきます。
舞台はずべてラスベガス。

こちらは、カジノとしてのラスベガスの内幕が面白おかしく描かれていますが、理屈抜きで楽しめます。

ベガスに行かれた方も、まだ行かれていない方も
「バグジー」を観て、「オーマイゴッ」を読む。

俄かに「ベガス通」になれること請け合いです。

なお、ベガスのショーに関して興味のある方は、
https://www.artcomplex.net/text_archives/n/
僕の観賞記「ヌーボーシルク見聞録」を読んでみてください。

小原啓渡

2008.03.30

喜び

帰ってきました。
「コンドルズ」ブラジルツアー、改めて彼らの底力と、この集団の素晴らしさを実感しました。
結成以来10年を過ぎ、みんな「おっさん」になりました。
でも、純粋な子供心を持ち続けている本当に素敵なおっさん達です。
僕はメンバーの一人一人、コンドルズという稀有な集団に心底惚れこんでいます。

ところで、ブログにも復帰です。
毎日書くことは難しいかもしれませんが、続けます。

今回は「よ」、「喜び」でいきましょう。

人って、何を「喜び」と感じるかによって、価値観や人間性が変わってくると思います。
基本的には、生きること自体が「喜び」であるはずだと思いますが、
「ラッキー!」ていう軽いものから、涙が出るほどのものまでいろいろ。

今回のツアーで、コンドルズが毎回数百人という観客を歓喜の坩堝に引き込んでいくのを目の当たりにするにつけ、
公演後の彼らのはじけるような笑顔を見るにつけ、
「エンジョイする」という言葉に関して考えました。

「enjoy」は「en?joy」
「楽しむ(en?joy)」とは、「喜び(joy)」を与えることなんですね。

彼らが、不特定多数の人たちに楽しみを与え、喜びを与えることで、自分達が楽しみ、喜びを感じているのを確信しました。

いろんな喜びがあるかと思いますが、

「人を喜ばせることが自分の喜びである」

僕は、そんな思いを持って生きている人を尊敬するし、自分もそうありたいと思っています。

小原啓渡

2008.03.11

番外

今日から、「コンドルズ」のブラジルツアーに同行します。

まずは、最初の公演地サンパウロに入り、クリティパに移動します。
帰国は、26日の予定です。

できれば、番外で実況ブログ書きたいところですが、現地でのネット環境次第です。

それでは、行ってきます!

小原啓渡

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