小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2008.03.10
ユーモア
「ゆ」、スタッフからの要望で「ユーモア」
「Life is serious joke」という言葉があります。
「人生とは、シリアスなジョークだ」ということですが、この感じ、好きですね。
「ジョーク」と「ユーモア」はイコールではないですが、ユーモアを表現する方法の一つにジョークがあると考えると「ジョーク」も大切ですね。
僕にとって「ユーモア」は、「コミュニケーションにおける潤滑油」、「雰囲気を和らげるツール」です。
大阪で「笑いの文化」が発達したのは、大阪が商業の中心地であったことと係わりがあると聞いたことがあります。
つまり、「商談」において、その場を和らげ、相手の心を開かせるのに「笑い」(ジョークやユーモア)が有効に働いたというわけです。
僕も、場の雰囲気が硬かったり、誰かに詰め寄られて形勢不利になり始めると、
「何とか、面白い切り返しができないか」と頭を使い始めます。
緊迫した状況でのジョークやユーモアは、さじ加減を間違えると、
「真剣じゃない!」と取られて、状況を更に悪化させることにもなりかねないので、細心の注意が必要ですが、当たれば「一発逆転」もあり得ます。
こういう場合での「ユーモア」は一種のギャンブルですね。(これがまた楽しい)
先日、取引先での会議で大失敗して、先方の取締役が中座するという事態に陥りましたが、悪気があったわけでもないし、これも修行の一つです。
「ライフ イズ シリアス ジョーク」
まったく、ユーモア溢れる、素敵な言葉です。
小原啓渡
2008.03.09
優しさ
「や」、「優しさ」で。
「どんな男性(女性)が好きですか?」という問いに対する答えで多いのが、「優しい人」
でも、「優しいって、どういうこと?」と聞いて、即答できる人は少ない気がします。
僕自身も、これが優しさだと言い切ることは出来ませんが、少なくとも、一般的に使われている「ソフト」な感じや「甘い」感じの優しさには、共感しづらい。
というのも、僕の場合、子供を育ててきた過程で、
一般的にいわれる「優しい親」を演じる方が、「厳しい親」でいるよりずっと容易だったからです。
可愛い子供達から、例えば何かが欲しいとにねだられて、
「ダメ!」と言うのは、本当に難しい。
「我慢すること、モノを大切にすることを教えなきゃ」とか色々考えても、
「好かれたい」「やさしいパパだと思われたい」という気持ちの方が先行して、ついつい甘くなってしまいます。
また、「優しさ」とは、「思いやりがあることだ」とも言えると思いますが、
この「思いやり」ということも含めて、大きく2種類あるんじゃないかと思っています。
つまり、
「相手を強くする、優しさ」と
「相手を弱くする、優しさ」
言葉を変えるなら、
相手が一人の人間として強くなり、自立していくことを助ける優しさと、
相手をますます弱くしてしまう一時的な優しさ。
端的にいえば、「甘さ」と「厳しさ」ってことなんだろうと思うのですが、
やはり「厳しさ」のない「優しさ」には、どこかフェイクな香りが漂っているような気がします。
時には、「冷たい」と思われようが、嫌われようが、
厳しい態度を取ることも大切なんでしょうね。
究極のところは、
「愛」に基づいた行為に「優しさ」が存在するのだと思いますが、
(愛に関しては、おそらくこのブログでは書き切れない)
とにかく、
その時心地いいだけの優しさより、
後からじんわり効いてくる優しさをもった大人がいいなと思っています。
小原啓渡
2008.03.08
模試
「も」、「模試」で。
「模試」に関する、とんでもない「マグレ話」を少し。
浪人をしているとき、京都の「駿台」という予備校に通っていました。
大学受験をしたことがある人ならご存知だと思いますが、
「駿台模試」という全国模試があります。
いくつかある全国模試の中でも、もっともレベルの高い模試と言われていて、全国で10万人くらいの受験生が受けていたと思います。
その全国模試の3教科(英語・国語・社会)で、僕、全国1位になったことがあるんです。
これって自慢話ではなくて、あくまでマグレ話です。
というのも、現役の時から何度もこの駿台模試を受けていましたが、1位を取った模試の、後にも先にも、上位1000番以内にも入ったことがない。
(成績表と一緒に送られてくる冊子に上位得点者の名前と学校名と得点や偏差値などが掲載されている)
それで、例えば10位以内に入ったというなら、まあ、そういうこともあるかなと思えるところですが、2位でも5位でもない、1位ですよ。全国トップ!
これは、完全におかしい。
どこかの遊園地で子供を乗せてアトラクションをしている馬が、ダービーで優勝したようなもんです。
でも、こんな事が現実にあるんですね。
僕にとって、正真正銘、人生最大級の「まぐれ」でした。
小原啓渡
2008.03.07
目利き
「め」、「目利き」で。
職業がら、「目利き」という言葉は無視出来ないですね。
だたし、真贋(本物か偽物か)を見極めるといっても、本物とは何かという規定が必要ですし、
良いものとそうでないものを見極めるといっても、何が良いものなのかを明確にする必要があります。
そこまで突き詰めて論理的に「目利き」を説明するのは、かなり無理があるような気がします。
「ニュアンス」とか「何となく・・」という領域に入り込んでしまいます。
それでは、一般的な解説は難しいとして、僕個人は具体的にどういう基準で選択をするかという話です。
僕の場合、既に存在している「物」(例えば骨董品)ではなく、
「人」(例えばアーティスト)だったり、「こと」(例えば企画)に関する目利きが要求されることが多い。
しかも、まだ一般的な評価が定まっていない、磨けば光るだろう「原石」を見出す、あるいは今後発展し、より影響力を持つだろう「企画」を選択する必要があるわけですが、僕が基準にするのは、
「直観」 ただそれだけです。
(なぁ?んだ、と思われた方、すみません)
それでは、僕にとって直観とは何かというと、
「分析もしないし、評価もしない」ということです。
例えば、履歴書や入社試験の結果などを一切見ずに、面接して採用を決定するようなものです。
(実際、当社の場合はそんな感じなのですが・・・)
「直観も大事」あるいは「直観も選択の一つの要素」というのではなく、
「100%、自分の直観を信じる」
というのが、僕のやり方です。
「そんな選ばれ方をされたら、たまらない」
と思われた方、すみません。
小原啓渡
2008.03.06
虫
「む」、「虫」で。
「虫」といっても、昆虫ではなくて「本の虫」
うちの奥さんは、まさに「本の虫」です。
暇さえあれば、本を読んでいて、布団の中でも読んでいます。
読みながら寝てしまうらしく、いつも寝床のスタンドが点きっぱなしで、本を開いて手に持ったまま、メガネもかけたまま、寝入っています。
面白いのは、毎日毎日何十年も本を読み続けているのに、
彼女から、「この本読んだことある?」とか「この作家面白いよ」とか、
本の話題が出たことが一度もないという事実です。
(話好きで、どうでもいいような話はよくします)
また、家の中に奥さん所蔵の本が一冊もない、というのも不思議です。
すべて図書館で借りてきて、
読みたい本がなくなったといって図書館を移っていく人です。
(彼女の実家は本屋さんなのに、本を買ったのを見たことがない)
まあ、この「本の虫」っぷりも、何十年も続くと(結婚約25年)
畏敬の念を通り越して、怖いくらいです。
一体彼女は生涯で何冊の本を読むのでしょうか?
おそらく、そんな数など全く意に介さず、
さほどジャンルも問わず、話題にするわけでもなく、
黙々と読み続けている姿は、
まさに「本の虫の中の本の虫」の称号にふさわしいと思っています。
小原啓渡
2008.03.05
ミス
「み」、「ミス」。
「弘法も筆の誤り」とか
「猿も木から落ちる」などの格言があるように、誰しも「ミス」を犯します。
「1 件の重大事故の背後には同種の軽微な事故(ミス)が 29 件あり,その背後には 300 件の異常がある」という「ハインリッヒの法則」は有名ですが、
ちょっとした「ミス」が直接大きな事故につながることもありますから、軽微だからといって軽視するわけにはいきません。
それでは、誰もが犯す可能性のある「ミス」を最小限に食い止めるにどうすればいいか、
僕の経験から少し書いてみたい思います。
「ミスをしても、落ち込むな」
これが僕の考えです。
人はミスをすると、とかく「落ち込む」傾向があります。
親や先生などから「ちゃんと、反省しなさい!」と言われ続けた結果でしょう。
(言う方も、言われる方も「反省」の意味を明確にしないまま・・)
そこで、僕が問題にしたいのはこの「反省」の意味です。
「あぁ、僕ってほんとに注意力散漫だ、駄目な人間だ、これからは気をつけよう」
これを反省だと思ったら大間違いです。
(具体的な対策を講じない限り、「気をつける」くらいで「注意力散漫」は変わらない)
でも多くの人は、自分を責め、落ち込めば、それで反省したと思っていないでしょうか?
大切なのは、冷静にミスを「分析」し、「対策を練り」、「対策を実行する」ということであって、自分を叱ることでも、落ち込むことでもない。
僕がスタッフなどを見ていて気づくのは、
「ミスを指摘されて妙に落ち込むタイプは、また同じミスを(何度も)犯す傾向がある」ということです。
自分を責め、落ち込む方が「痛い目に合う」という意味で、再度のミスを犯さなくなるという考え方が常識的だと思いますが、意外にそうでもない。
何故かと推測するに、二つの理由があるように思います。
落ち込むタイプの人は、自分を責めることにエネルギーを使い切り(ある意味、誠実)、その後の処理が十分でない場合が多い。
つまり、「自分は苦しんだ」=「反省した」と、それで終わってしまっているのではないかということ。
そしてもう一つは、落ち込むことで「自分」=「ミスをする人」という無意識な「自分像」がより強固になっていく(この自分像が再度のミスを誘発する)のではないかということです。
ミスを犯すことで、誰かに迷惑をかけた場合、真摯な態度で謝罪することはもちろん大切ですが、やってしまったことをいくら後悔しても、意味はないと思います。
あくまでクールに(意識して)、ミスを検証し、対策を練り、対策を実行する。
自分は「ミスをするダメな人間だ」と思うのではなく、自分は「弘法さんだ(基本的にミスなんてしない人間だ)」と思うくらいの気持ちを意識的に持つようにする方が、僕の経験上、ミスは減っていきます。
もちろん、慢心するのは、より危険ですし、
「後悔するな、落ち込むな」と言われても、それがなかなかできないのが人間、ということも分かります。
しかし、
意識的に視点を変えることで思考が変わり、現実が変化するということも確かな事実です。
小原啓渡
2008.03.04
祭り
「ま」、「祭り」で。
近年、「祭り」が危機的ですね。
神仏や祖先などに祈願感謝する儀式として形式的に残ってはいても、精神的な意味合いは、かなり希薄になってきています。
(科学の進歩を鑑みると、ある意味仕方ないことかと思いますが・・)
また、単純に「楽しみ」あるいは「エンターテイメント」としての要素も減少しているように思います。
子供のころ、僕にとっての「祭り」は、神輿が巡行する「秋祭り」と夏の「盆踊り」でしたが、
あの「ワクワク感」は一体何だったんでしょう。
昔は今と比べ「楽しみ」が格段に少なかったので、祭りの「スペシャル感」が際立っていたのだろうと思いますが、
「非日常」というキーワードで考えるなら、
「現代の祭り」を企画することが可能かもしれません。
名ばかりの「フェスティバル」ではなく、「非日常」で「熱狂」がある「祭り」
職業柄、つい色々と考えてしまいます。
そこで、今日は「バーニングマン」というアメリカの「現代の祭り」を紹介しましょう。
1986年にサンフランシスコのベイカー・ビーチにて、ラリー・ハーヴィーという人物が恋人とのイザコザの憂さ晴らしのため2.4mの木製の人形を作って燃やしたことが最初のきっかけだった。「木製の人形を燃やす」という行為は西海岸を中心としたアンダーグラウンド・アートシーンの興味を集め、次第に多くのアーティストがベイカー・ビーチに集まるようになった。
イベントの規模が拡大し、燃やす人形の大きさもどんどん巨大になったため、1990年より会場をネバダ州のブラックロックデザート(Black Rock Desert)に変更。東京23区よりも広い砂漠を会場に、さらにイベントは拡大した。
1990年代初頭はまだ「知る人ぞ知る」イベントであった。これが1990年代半ばから始まるインターネットの普及により、数多くのWEBサイトが作られ、爆発的に参加者が増えることとなる。
現在の参加者は3万人強。開催中はネバダ州で3番目に大きな人口を持つ場所となり、Black Rock Cityと呼ばれるようになった。
(wikipediaより抜粋)
小原啓渡
2008.03.03
ポンコツ
「ほ」、「ポンコツ」
「ポンコツ」とは、「ポン」と「げんコツ」で殴るってことから生まれた造語のようですが、何気に「かわいい」というか、親しみのあることばですね。
僕の「ポンコツ」は、やはり車です。
1972年製のイギリス車ですから今年36歳ですね。
人の30代は働き盛りですが、車年齢でいくとかなりの長寿です。
(最近では10年を超えて現役の車は非常に少なくなりました)
「オースティン1300」という名前で、通称「からし号」と呼ばれています。
単純にからし色をしているというだけなんですが、以前、1969年製のスズキのフロンテバン(こちらはパンダ号)に乗っていた時、2台を区別するためにスタッフが呼び始めた「あだ名」です。
(からし号より年配だったパンダ号は、懸命なる介護も及ばず、数年前ついに廃車になりました)
上記の2台とも、廃車状態のものを二束三文で買ってきて、時間をかけて少しづつ修理し、現役復帰した車です。
(ちなみにその前の車は、「イノチェンティー」という、もうとっくに会社も倒産したイタリアの車でした)
こうした車に乗り続けるには、かなりの忍耐と、
古い車を愛してる腕のいいエンジニアが必要最低条件です。
僕の知り合いのエンジニア(といってもおっちゃん)は、たいがいの部品なら自分で造ってしまいます。
(古い車の部品はもうメーカーでは製造していないのです)
次々と既に供給がストップしている部品がダメになっても、おっちゃんは頑張ります。
僕も、どんなに故障しようが頑張ります。
おっちゃんが、「この部品だけは造れない」と悲しそうに言った時が、
臨終(廃車)のときです。
おっちゃんに悲しい顔をさせたくないので、僕も車を大切にしています。
冬は床が錆びて穴が空いているので寒いです。
もちろん冷房もないので、夏はサウナです。
すぐに動かなくなるし、
家族からは「もっとマトモな車にしてよ!」とか、
「なんかこの車に乗ると酔うねん」とか、
夏と冬なんて、「送ろうか?」といっても、
「いや、バスで行くわ」とか言われてしまいます。
それでも僕は、おっちゃんと一緒に、頑張ります。
小原啓渡
2008.03.02
変人
「へ」、「変人」で。
アート関係の人たちの中には、とかく「変人」が多い。
ただ僕が誰かを「変人」というとき、それは一種の賛辞です。
「世界に一つだけの花」という歌が流行った時期がありましたが、
誰もが「オンリーワン」だっていう歌詞を聞いて、
「何を今さら・・」と感じていましたね。
一人一人が「オンリーワン」なんて、当り前。
こんな歌が流行るなんて、この社会が病んでる証拠なんじゃないかと思っていました。
「人と違ったことをするな」
「常識からはみ出すな」っていうようなことが、
特に古い時代において、まことしやかに囁かれてきた傾向は否めません。
(これって、「十把一絡げ」が管理しやすいという、為政者の意図的な操作だったと思うのですが・・・)
それに対して、アートはある意味「個性を主張する世界」です。
「自分が他人と違うことを表現する行為」だとも言えるでしょう。
自分から見ると、自分以外の人は「変人」であってしかるべきで、
育った環境も違えば、価値観も違う。
ただ、人は「異質」なもの、自分とは違う価値観に触れて、成長・発展する。
二つの遺伝子が混ざり合って種を維持・発展させる生命のシステムと同じです。
若い芸大生などに時に見られますが、何もいきって「変人ぶる」必要はない。
自分を素直に、ありのまま出せば、それで充分「変人」です。
個性を出すことを抑止し続けた過去の社会に問題があるとしても、
もう今は、かなり変化してきています。
まず、自分が他人とどう違うかをしっかりと見極めた上で、その違いを堂々と表現することって大切だと思います。
もちろん、お互いがお互いの個性、違いを尊重できる人間的な「成熟」が必要条件だと思いますが・・・
とにかく、成熟した社会になって「変人」であることが、もっと尊重される世の中になればいいなと思っています。
小原啓渡
2008.03.01
風呂
「ふ」、「風呂」で。
お風呂、好きですね。
朝はいつもシャワーですませますが、夜は必ずお風呂に入ります。
湯船の中にお風呂用の椅子(普通の椅子と同じ高さ)を入れて、膝から下だけがお湯に浸かるようにして、本を読みます。
足だけとはいっても、少し熱めのお湯なので、汗が出てきて結構のぼせた感じになるのに約30分くらいはかかります。
「足湯」ってやつですね。
以前「半身浴」もやってみましたが、のぼせるのが早く、姿勢も良くないので、まともに本を読めないのでやめました。
本の内容が面白くて、1時間以上読んでいても,
ちゃんと椅子に座っていて、足だけお湯の中なら問題ありません。
つまり僕にとって、お風呂は、
「いかに快適に本を読めるか」が最優先なわけです。
この方法なら、かなりとっつきにくい難解な本も、長編も難なく読めるようになるのが不思議です。
読み疲れたら、湯船から椅子を出して、肩まで浸かってゆっくりとあたたまる。
毎日、本を読むのが楽しい習慣になりますよ。
みなさんも是非一度試してみてはいかがでしょうか?
小原啓渡