小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.02.29

評価

「ひ」、「評価」

今日で2月も終わりです。
このブログ、元旦から2ヶ月間、何とか毎日書き続けることが出来ました。

1,2月は比較的暇だったので、その分は差し引かなければいけませんが、自分なりに「評価」できると思っています。

ところで、「評価」に関して、第三者的な視点を持つことは、何においても重要だと思いますが、
自分の事であり、自分以外の事であり、自分が「評価」する限りはいくら客観的になろうとしても、やはり「主観」な気がします。

そう考えると、「客観的」っていうのはどういう基準なんでしょうね?

多数の人に聞いて、その大半が同意する考えですかね?

「主観」に対して「客観」があるなら、自分以外の人の意見はすべて「客観」なんじゃないかと僕は思うのですが・・・・

さて、明日から3月ですが、行政的にいうと「年度末」
報告書やら、計画書の作成時期に入ります。

気温が上がってくるに従って、催しも増えてきます。
(僕も3月はブラジルツアーで半月以上海外です)

おそらく、これからは毎日書き続けることが実際難しくなると思いますが、
「ブログを続けるコツ」はこの2ヶ月でほぼ習得したので、断続的になったとしても書き続けます。

是非、お暇な時はチェックしてください。

小原啓渡

2008.02.28

俳句

「は」、「俳句」で。

「俳句」は、ご存じのように五・七・五の音節から成る日本語の定型詩ですが、「世界最短の詩」でもあるんですね。

僕には、そぎ落としたシンプルなものに、深さや洗練、あるいは趣を見ようとする傾向があるので、
「世界最長の詩」に興味はないですが、この「世界最短」というところには惹かれます。

そして僕にとって「俳句」といえば、「山頭火」ですね。
(種田山頭火の俳句は、「自由律」と呼ばれ、飾り気がなく、平易で、自由な音節が特徴です)

好きな句は、

「分け入っても 分け入っても 青い山」

他、色々ありますが、

「なければないで さくら咲き さくら散る」

とかも好きです。

また、辞世の句として残っている俳句や短歌も、何とも趣が深いと思っています。

西行法師の

「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」

は有名ですが、

「おもしろきなき世を おもしろく」

この高杉晋作の辞世の句にまつわる逸話も、心にしみます。

晋作が死に際にこの句を詠んだ、けれど、下の句は息がきれて続けることができなかった。
その時、そばにいた女性が受けて、下の句を結んだ。

「すみなすものは 心なりけり」

晋作は、その下の句を聞いて、

「おもしろいのう」と言って、最後の息をひきとった・・・・

僕も、こんな最期を迎えられたらいいなと思います。

小原啓渡

2008.02.27

農繁期

「の」、「農繁期」で。

今はあるのかないのか不明ですが(おそらくないと思います)、僕が小学生の頃、田植えと稲刈りのシーズン、つまり「農繁期」の10日くらいは、学校が休みになっていました。

農業が中心の田舎町だったこともあるとは思いますが、私立ではなく公立校でしたから、あのシステムは国で定められていたんだろうかと不思議に思います。

とにかく、この農繁期の連休には、子どもたちは否応なく家の農作業を手伝わなければならないわけで、これって、とてもいいシステムだったと思うんです。

昔の農作業は、ほぼすべてが「人力」
田植えは、苗を一束一束手で植えていたし、稲刈りも鎌で刈り取っていました。
田んぼを耕すのも耕運機ではなく、牛でしたね。

今なら、田植え機や稲刈り機があるので、一人で何人分もの仕事が出来てしまいますが、昔は本当に猫の手も借りたいくらいの忙しさだったのだろうと思います。

当然、子供も作業に駆り出されるし、近所の人たちも協働しなければならなかったんですね。

それくらい、大変だったんだろうとは思うのですが(実際、僕も嫌でした)
今となっては、とても思い出深いし、そこから学んだことも多かった。

まず、家族がそろって何か一つの作業をする機会って今ではほとんどないですし、ご近所さん(隣保って言ってました)との実質的な交流もない。
つまり、子供が仕事をしている親の姿を見ることもなく、実際自分たちが仕事に汗を流すということも基本的にないわけです。

思い返してみると僕自身、こうした作業をする中で、大人ってすごいな?と感じたり、コミュニティーを知ったり、自然を体感したり、労働の後の握り飯のおいしさを実感したり・・・
ほんと色々な実体験をしたと思います。

机の上での勉強も大切ですが、こういったことを学ぶことも大切ですよね。

機械化は確かに人の生活を便利にしてきましたが、
効率と機能性だけを追求することで人間が失ってきたものを見直すことって、
今の時代、特に重要なんだろうなと思います。

小原啓渡

2008.02.26

「ね」、「熱」で。

「熱」というのはエネルギーの移動形態の一つで、必ず高温の物体から低温の物体へと移動し、その逆はありえない。
また、熱は移動の際に外部に熱が流出しなければ、高温の物体が失った熱量と、低温の物体が得た熱量は等しい、という性質を持っています。

そこで、僕が経験的に思い当たるのは、
「熱心」に誰かに何かを話したり、語ったりした後、単純に話し疲れたというのではなく、妙に冷めてしまうこと。
(またすぐに熱量が上がりますが・・・)

これって、話した方が冷めた分、話を聞いた方は熱を帯びているんでしょうか?

そうだとしても、移動した熱は、その後どうなるんでしょう?

結局、それ以上に低温なものに流れていくだけで、時間の差はあっても、ずっとそこに留まることはないんでしょうね。

時々、熱心に話した後で、妙な無力感を感じるのはそれ故なのかもしれません。

結局のところ、自ら熱を生み出すジェネレーターが回り出さなければ、外部からの熱は一時の刺激でしかない。

一人ひとりが、それぞれ別のジェネレーターを持っているとしても、動かすためのスイッチがどこにあるのか、本人さえもわかっていない場合が多いような気がします。

他からの熱がまだ残っている間というのは、おそらく、自分のスイッチを探す一つのチャンスなんだろうなと思います。

「モチベーション」というのも、この「熱」の一種だと思いますが、
本質的に熱が「摩擦」から生まれるとすると、スタータースイッチの在りかを知るためのヒントは、
この「摩擦」にあるのかもしれません。

他からの熱を帯びた時、自分の中の「摩擦」を検証してみる・・・。

そこに、何かが、見えてくる・・・はずです。

小原啓渡

2008.02.25

ヌーディストビーチ

「ぬ」、「ヌーディストビーチ」

「ぬ」から始まる言葉って、少ないですね。(特に日本語)
困ってしまって、「ヌーディストビーチ」

南インドに「ゴア」という海辺の町があって、ここは知る人ぞ知る「ヒッピーの聖地」でした。
今は変わってしまったようですが、僕がその町に滞在した1980年代の初めは、まだヒッピーの生き残り達がたくさんいて、「聖地」の雰囲気がムンムンしてました。

「聖地の雰囲気」っていうと「神聖」なイメージがあると思いますが、
「ヒッピーの」となると、これは「自由」ってことで、
この町にあるアンジェナビーチは、当時、「ヌーディストビーチ」として世界的に有名でした。
(ひょっとすると、世界で最初のヌーディストビーチかも・・)

南仏とか、南米のビーチでも「トップレス」はさほど珍しくないですが、
さすがに「すっぽんぽん」を他で見たことはありません。

僕が最初にこのビーチに足を踏み入れた時、
不思議な感覚にたじろぎました。

何にたじろいだかというと、見渡す限りみんな全裸だということではなく、
僕だけが服を着ているということ。

つまり、僕の方が恥ずかしい!という状況にたじろいだわけです。
(全裸になる恥ずかしさより、服を着ている恥ずかしさの方が完全に上回っていた)

ただ、男性なら分かってもらえると思うのですが、その恥ずかしさとはまた微妙に異なる恥ずかしさもあるのです。

当時、日本人でインドに長期滞在する人は少なく、そのビーチを見渡しても東洋人ぽい人が見当たりません。
つ、つまりですね、欧米人の男性はやはり、比較的、大きいわけです。

服を着ている恥ずかしさと、比較的小さい?恥ずかしさとの戦いが始まりました。
(比較的小さい恥ずかしさが勝ってしまうと、僕はこのビーチからすぐに去らなければなりません)

しばらくの葛藤の後、
僕は苦渋の決断をして、
このビーチにとどまることを選びました。

そそくさと、「恥ずかしくなんてないぞ?」って感じで、
パンツを脱いで、
「比較的小さなもの」を輝く太陽に晒したのでした。

脱いでしまえば、もうこっちのもんです!

それから数ヶ月、
僕は「ゴアのヌーディスト」の一人として、
「ヒッピームーブメント」の1ページを、「小さく」飾ったのでした!?

小原啓渡

2008.02.24

ニーチェ

「に」、「ニーチェ」

「もし木が天に届こうとすれば、その根は全くの地獄にまで達する必要がある」

この言葉に出会った時の、脳がしびれるような感覚を今も憶えています。

僕にとってのニーチェは、
この言葉を残した一人の哲学者が、一体どんな人間だったのかを知りたいという欲求から始まりました。

そして、彼の難解な著書に何度突き放されても、再度挑んできたのは、
この言葉の意味をもっと深く知りたかったからに他なりません。

ニーチェのことを考え始めると、書き続けることが出来なくなってしまいました・・・

申し訳ない。

今日は、読書をします。

「善悪の彼岸」

小原啓渡

2008.02.23

中座

「な」、「中座」で。

江戸時代、大阪の道頓堀は「道頓堀五座」と言われた5つの芝居小屋(弁天座・朝日座・角座・中座・浪花座)を中心に、多くの劇場が軒を連ねる日本のブロードウェイだったといいます。

その五座の一つ「中座」が1999年10月に閉館しました。
(僕はこの中座で閉館までの数年間、照明技術者の一人として働きました)

閉館に先立って、映画館だった松竹座が現在の劇場に改築されていたので、大阪での興行に支障はなかったとはいえ、300年以上もの歴史を持つ芝居小屋がなくなるのは非常に残念で、寂しい限りでした。

売却先に引き渡される直前、廃棄処分される古い照明機材や備品の中で欲しいものがあれば頂けるということになり、あとは解体を待つだけの中座に行きました。

僕が見た最後の中座は、本当に痛々しかった・・・

そんな舞台の上手袖、大臣柱の裏側に古い「姿見」(鏡)が残っていました。

担当主任に「あのぉ、この姿見、いらないんですか?」と聞くと、

「それ、壁に張り付いてるから取れへんで・・」

「あの、もし、剥がせたら貰っていいですか?」

「ええけど、そんなもんどうすんの?」

どうもこうも、この時、僕にはその「姿見」が、キラキラと輝いて見えていました。

割らないように、傷つけないようにと、時間をかけて、
やっとの思いで取り外し、喜んでその姿見を抱えて表に出ると、
別の照明会社の先輩が、

「小原ちゃん、あんた何してんねん?、機材で使えそうなもん皆、もう内がもろたで・・・、あんた遅いわ!遅い!」

その会社の2トントラックには、既にめぼしい機材が積み込まれていました。

「そんなもん取り外してる場合やないでぇ、あんた照明さんやろ、何しに来とんねん・・・・
もぉ?、しゃぁないなぁ?、欲しいもんあったら分けたるし、いうてみぃ!」

会社は違えど、さすが先輩!
この中座で一緒に仕事をした仲間です。

ありがたく、使えそうな機材を分けてもらって軽トラックに積み込み、姿見だけは布にくるんで助手席に乗せて運びました。

他の人にとっては、古くて所々がくすんだその「姿見」は確かに「そんなもん」かもしれません。
でも僕には、何物にも代えがたい価値を持った鏡に思えました。

いつの時代に取り付けられたかは不明ですが、
過去、無数の名優たちが舞台に出る直前、
この鏡に向かい、襟を正し、気合いを込めてきた「姿見」です。

その中には、「いつか中座の華になる・・・」(浪速恋しぐれ)という歌にもある落語家、桂春団治や歴代の中村鴈治郎、市川団十郎、片岡仁左衛門、あるいは天才喜劇役者だった藤山寛美や都蝶々さんもきっといたに違いありません。

僕には、そうした人たちを映し続けてきたこの「姿見」は、
まさに「中座の歴史そのもの」だと思えたのです。

その後、中座は解体途中に全焼・・・・・、

そして、この「姿見」は、中座が閉館したその年の12月にオープンした、
「アートコンプレックス1928」の楽屋で、今も大切に使われ続けています。

小原啓渡

2008.02.22

「と」、今日は東京にいるので、「東京」といきたいところですが、時間の関係上今日は短く、「徳」で。

僕は幼少時代、人に授けられて育ち、高校・大学と下宿をして通ったので、両親と一緒に暮らした時間が少なく、あまり思い出もありませんが、母から教わったいくつかの教訓は、今も大切にしています。

母は親だといって僕を子供扱いしたり、むげに叱ったり、言い諭すようなことがほとんどない人でした。

そんな、母が唯一、事あるごとに口にしていたのが、

「損して、トクとれ」ということばでした。 

しかも、この「トク」は一般的に言われる「得」ではなく「徳」でした。

説教めいたことをほとんど言わない人が、たまに言うと心に残るんですね。

「損して、徳とれ」

「得」したって思うようなことは、所詮大したことでない。
どうせすぐに消えてなくなる。
でも、「徳」はずっと残る・・・

おそらく、この「徳」は「人徳」ってことなんだろうと思いますが、
誰に対しても謙虚で、公平で、浅ましさのない母に比べ、
僕はどうなんだろうと思ってしまいます。

「損得勘定」だけで物事を判断していないか?
「せこい」人間じゃないか?

いつもチェックしていないと、流されてしまいます。

唯一といっていい、母が僕に望んだ規範・・・

母に対する感謝の証として、いつまでもずっと心に持ち続けたいと思っています。

小原啓渡

2008.02.21

テスト

「て」、昨日バイクのことを書いたのでそれに関連して「テスト」で。

僕はあまり学校の勉強が好きではなかったので、「テスト」といってもちょっと違う「試験」、
大型(400CC以上)のバイクに乗るための免許、通称「限定解除」(二輪の種類に限定がなくなるという意味)の試験の思い出を少し。

今では、中型バイクと同じように大型バイクの教習をドライビングスクールなどで受けることができ、それから試験を受ける形になったようですが、僕が受験した当時は、教習を受けれるシステムはなく、いわゆる「一発試験」でした。

唯一、大型バイクを乗ることができたのが、運転免許試験場の中にあるコースを使って、バイクを借りて勝手に練習する方法だけ。

僕の場合は、仕事が休みの日の朝、試験の申し込みだけしておいて、何時間か練習し、午後から試験を受けるというパターンでした。

大体一回の試験に30人から40人くらいがエントリーしていたと思いますが、合格するのは2.3人、合格者が0の日もありましたね。

ちょうど暴走族などが社会問題になっていた頃で、なるべく大型免許を取らせない、といった風潮もあったと思います。

京都の場合は、AとBの2つのコースがあって、どちらを走るかは当日発表になります。
スラロームや一本橋、坂道での停止・発進などコース中に課題がいくつもありますが、それ以上にチェックされるポイントが多く、上手く課題をこなせたと思っても、なかなか合格しませんでした。

5回くらい落ちるのは当り前で、だいたいそれくらいの頃はさほど悲壮感もない。
同じ受験者から「何回目?」と聞かれても、明るく答えていれるのですが、10回目くらいになると、さすがに焦ってきます。

なるべく「何回目?」と聞かれないように、無愛想な雰囲気を装い、人と話さなくなります。

その頃はもう、どこが悪くて落とされるのか全く分からなくなってきて、
「きっと試験官は僕が気に食わないんだ」とか思い始めるわけです。
(採点表が返ってくる訳でもなく、走った後、一人一人口頭で合否を告げられる)

大体、ケツを割る者がボロボロ出始めるのもこの頃で、僕も正直、「こりゃ、無理かな」と思い始めてました。
実際、何度も顔を合わす内に親しくなった連中の多くが、この頃、来なくなりました。
(学生ならまだしも、社会人なら時間的に確かにきつい)

もう20回目とかいう「ツワモノ」もいて、これくらいになると、受かるためというよりは、新米にアドバイスしたり、回数を笑いのネタにして楽しんでいる感じがあって、ああいう風にだけはなりたくないと思ってました。

そんなこんなで、10回目を過ぎたころから、僕も何となく行くのが嫌になってきて、
「これが最後、今日落ちたら、もうやめ!」
という繰り返しになりました。

「もう、これが最後!!!」が何回か続いた14回目。

「ハイ、合格、おめでとう!」の言葉をもらいました。

いやぁ?、ほんとに、うれしかったですね。

13回も落とされる経験なんて、これからの人生でも有り得ないと思います。

「失敗とは、諦めること」
(諦めない限り、本当の失敗はない)

この言葉が、骨身にしみた経験でした。

小原啓渡

2008.02.20

ツーリング

「つ」、「ツーリング」で。

学生時代、何をしてたんだろうと考えて、まっ先に思い浮かぶのが「ツーリング」、つまりバイクでの旅。

当時僕が乗っていたのは「カワサキLTD400」というアメリカンタイプ。
気が向いたら遠出して、どこでも寝れるように、バックシートにはいつも寝袋を積んでいました。
(女の子を乗せた記憶がほとんどない)

アルバイトをして、ちょっとお金が入ると、すぐに一人ででツーリングに出かけてました。
大体北海道に行く時は、敦賀からフェリーにのって小樽に入り、夏なら1か月くらいは帰らなかったですね。

よほどのことがない限り、ユースや旅館に泊まるということもなく、ほとんど野宿でした。
野宿は大抵、駅でしたが、北海道のいいところは、冬の寒さ故でしょうか、バス停が簡易な小屋になっているところが多く、よくそこを使わせてもらいました。

ツーリングというとグループで走る人たちが多いですが、僕はいつも一人。
事前にルートを決めず、自分のペースで走るのが好きなタイプだったので、旅の途中で誰かと親しくなっても、一緒には走らなかった。

一応自分なりのスタイルにこだわってたっていうか、ちょっとカッコつけてたんでしょうね。

安全性からいうと断然グループで走る方がいいわけで、事故に巻き込まれたり、故障、あるいはガス欠した時にでも仲間がいると何とかなる。

たまたま、休憩しているところで一緒になった二人組から、
阿寒湖の近くに、「北海道3大秘湖」のひとつ「オンネトー」という「七色に変化する湖」があると聞いて、珍しく北海道に台風が接近しているというさ中、すぐにコースを変更して向かいました。
(彼らは、その日は近くのユースに泊まって、次の日に行くということで、同行しないかと誘われましたが・・・)

かなりの秘境で、道の状態も悪く、曲がりくねった山道を走りながら、
「引き返してどこかの駅で台風の状況を見ながら待機した方がいいかな」と思い始めた矢先、
不完全に舗装されたアスファルトの窪みにタイヤを取られて、大転倒!

怪我は擦り傷程度ですみましたが、クラッチが折れ曲がって、ギアが入らなくなってしまいました。
周囲にはバイク屋どころか民家さえない山の中。

そんな状態を見計うように、雨も激しくなってくる。

石でクラッチを叩いて、なんとかギアをローに入れ、来た道をトロトロと引き返すほかありません。

かなり走って民家を見つけ、工具を借りて修理を試みましたが、これもアウト。
バイク屋らしきものは、釧路まで出ないとないとのことでした。

とにかく、途中にガソリンスタンドくらいはあるだろうと雨の中を釧路に向かいましたが、行けどくらせど何もない。
ローで出せるスピードはせいぜい10キロ程度、無理をしてふかせばガソリンを使って途中でガス欠になる。

結局、何とか途中でガソリンスタンドを見つけるも修理できず、
100キロ近い道のりを豪雨の中、トロトロと走り続けて、
やっとの思いで釧路にたどり着いたのでした。

その後、懲りずもせず限定解除(大型バイクに乗れる免許を収得)しましたが、今はバイクに乗っていません。

50歳になったら、またバイクを買ってツーリングを再開する予定ですが、今度は一人じゃなく、仲間と一緒がいいですね!
(オンネトー、リベンジです)

小原啓渡

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