小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2008.02.19
チーム
「ち」、「チーム」で。
チームとは、「共通の目的、達成すべき目標、そのためのアプローチを共有し、連帯責任を果たせる補完的なスキルを備えた少人数の集合体」(wikipedia)
ということですが、「少人数の集合体」の少人数というのは何人くらいなんでしょうね。
チームというとスポーツのイメージが強いので、その辺を参考にすると、バレーが6人、野球が9人、サッカーとアメフトが11人、ラグビーが15人・・それ以上多いスポーツってありましたっけ?
まあ、大体15人くらいまでの集合体ってことですね。
もちろん「集合体」というのは様々で、国や地方自体、会社や組合なども人の集合体ですが、一般的に「チーム」とは言いません。
ということは、やはりこの15人くらいまでの少人数というのがチームのミソなんだと思います。
この「チーム」が、本質的に他の集合体と違うのは、やはり「コミュニケーションにおける密度」の問題ではないでしょうか。
各メンバーが、一個人として他のメンバーと円滑に意志疎通ができる限界数が15人、といえるかもしれません。
この意味で考えると、例えば釈迦の「十大弟子」、
キリストの使徒「最後の晩餐」は12人、
ちょと変わったところで「二十四の瞳」の12人も納得がいきます。
つまり、「コミュニケーション」ということを集合体の重要な要素と捉え、優先順位の高い位置におくなら、15人以内で一つのチームを作り、その各人が同数程度のチームを作っていくというのが理想ということになります。
僕の場合もやはり経験的に、自分ひとりで何とかコミュニケーションの質を保てる人数は12人くらいですね。
ということで、うちの会社(リッジクリエイティブ株式会社)では「リッジ12」というコア集団がいて、その12人がまた自分のチームを作っていく、というのを奨励しています。
密なるコミュニケーションを大切に考え、
「個人が同等に向き合い、お互いの能力と役割を尊重し、協働して目的に向かう」
たとえメンバーが増えても、この姿勢だけは崩したくないと思っています。
小原啓渡
2008.02.18
台湾
「た」、「台湾」でいきましょう。
フランスで「コンテンポラリーダンスの母」と呼ばれているスーザン・バージと長く仕事をすることになった一つのきっかけが、台湾にあります。
彼女が、フランス政府から日本に派遣され、現役ダンサーとして最後のアジアツアーを計画している時、僕は彼女と出会いました。
彼女は、最後の作品をソロで踊ることに決めており、日本でテクニカルディレクターを探していました。
条件は、英語が喋れることと舞台の総合的な技術を持っていること。
つまり、音響・照明・舞台という最低3名は必要な技術を一人でやってくれる人、ということでした。
1990年の初め、日本ではまだ「コンテンポラリーダンス」という言葉さえ知られていない頃で、僕自身も「コンテンポラリー」って「モダン」とどう違うの?という程度の知識しかありませんでした。
ふたを開けてみると、やはりツアーメンバーは、スーザンと僕の二人だけ。
(制作もいなければ、コーディネーターもいない)
それまでにも何度か海外での仕事はしていましたが、二人だけというのは初めてで、さすがに不安でした。
そして、その不安を何倍にも増幅させるハプニングが最初の公演地「台湾」に向かう成田空港で起こりました。
チェックインをしようとして、スーザンが台湾のビザを取っていないことが発覚!
(スーザンは、指摘されるまでビザが必要だと思っていなかった)
その日は日曜日で領事館は閉まっており、しかも悪いことに、次の日の月曜日も祝日でした!
公演の本番は3日後、たとえ火曜日にビザが取れたとしても、便の関係で本番時間には間に合わない!
まったくもって、最悪の事態でした。
打開策を検討するも答えが見つからず、搭乗時間は刻一刻と近づいてきます。
重苦しい沈黙・・・・
しばらくして、スーザンが僕を食い入るように見つめて言いました。
「ケイト、あなたは私を信じることができる?」
あまりの気迫と、真剣なまなざしに、
「・・・もちろん!」と答えていました。
「じゃぁ、先に行って、準備を進めて。私は必ず本番に間に合うように行くから、主催者にもこのことを絶対言っちゃダメ! 私を信じて、待ってて!」
そうして、僕は、一人で台湾へ入り、
「なぜスーザンは一緒でないのか?」という主催者からの質問を徹底的にかわしながら、現地のスタッフと準備を進めました。
当時は、携帯電話での国際通話どころかインターネットさえ普及していない頃で、スーザンの動向が明確につかめず、不安は募る一方でした。
到着初日に仕込みを終え、二日目は本人がいないままテクニカルだけのリハーサルをやりました。
主催者には、「スーザンは明日、到着しますので、ご心配なく」と涼しい顔でごまかしていましたが、さすがに「間に合わなかったらどうなるんだろう?」と考えると、内心はビクビクで、不安を通り越して恐怖にさえなっていました。
専用ジェットを飛ばすか、フランス政府がヘリを手配するか・・そんなこと以外、僕には解決策が見当たらないだけに、正直に事情を話して、公演をキャンセルするか延期してもらった方がいいのではないかと、悩みまくりました。
(今なら、まだお客さんに中止を告知する方法もあるが、明日ならより多くの観客に迷惑がかかる・・・・)
まさに、土壇場でした。
しかし、最終的に僕が出した答えは、
根拠はなくても、スーザンを信じること・・・・
そして、公演当日、
彼女は、ことば通り、本番直前に到着しました。
(僕が成田を発った日、スーザンは香港に飛び、翌日香港でビザを収得(祝日は日本だけ)、そして香港から台湾に飛んだ)
それから8年間、僕たちは、かけがえのないパートナーとして仕事を続け、現在もなお親交を深めています。
小原啓渡
2008.02.17
葬式
「そ」、死に関することが続きますが、今日は「葬式」で。
「その人の最も古い記憶が、人生に大きな影響を与える」
という話を聞いたことがあります。
子供時代の記憶として残っているのは、概ね3歳くらいからだと言われていますが、どの記憶が一番古いのかを確定することは意外に難しいようです。
ただ、僕の場合は簡単でした。
最も古い記憶(3歳前後)と次に古いだろうと思える記憶(5歳前後)の間が空いていて、最初の記憶もかなりハッキリと思い出すことができたからです。
もう40年以上も前の話です。
当時、実家がある田舎には火葬場がなく、概ね「土葬」でした。
棺桶も現代の箱型ではなく、人一人ひざを抱え、座った状態で収まる大きさの、まさに「桶」でした。
最後のお別れに、参列者が蓋の開いた棺桶を取り囲んでいます。
父はその人たちの後方から僕を持ち上げました。
ふわっとした感覚があって、覗き込む人たちの頭越しに、死装束を着て、折れ曲がるように座っているおばあさんが見えました。
頭に着けられた白い三角布や手に巻かれた数珠、新しい草鞋・・・
すべてがハッキリと目に焼きついているのに、記憶の中には音も、臭いも、私を持ち上げている父の手の感触さえありません。
ただ、僕だけが棺桶の上に浮いている・・
そんな記憶です。
「最も古い記憶が、人生に大きな影響を与える」
この言葉を当てはめるなら、
僕はまさに、死を経験し、蘇生し、「死」の対極ともいえる「生」を考え続ける人生を送っています。
皆さんもこの機会に一度、
「最も古い記憶」をたどってみてはいかがでしょうか?
小原啓渡
2008.02.16
成功
「せ」、ちょっと真面目に「成功」で。
自分にとって、人生における「成功」とは何なのか?
できるだけコンパクトに書いてみたいと思います。
僕は、人生を「ジグソーパズル」のようなものだと思っています。
生まれた時、何百、何千といったバラバラのピースを渡される。
そのピースの数や大きさは様々で、同じセットは一つとしてない。
(人の数だけセットは存在する)
しかも、完成形の絵は添付されていない・・・・。
人は、ピースを取り上げて、完成形を想像しようとするが、各ピースは何かの断片でしかなく、完成した絵を知る一つの手がかりでしかない。
全体をイメージするには、あまりに数が多すぎて、途方に暮れている人、ピースの数が比較的少なくて、おぼろげながらも完成形を、感覚的に捉える人もいる。
ただピースをもてあそび、かき混ぜているだけで人生を終える人もいれば、完成形に挑み、途中で今生の死を迎える人もいる。
僕の娘が幼い頃、
「この子は、実は僕より年齢が上なんじゃないだろうか」という奇妙な感覚に陥ることが頻繁にありました。
単に、大人っぽい発言をするとかではなく、あくまで感覚的に・・・
科学的に考えると、まったく説明できない感覚ですが、
もし「輪廻」というものがあるとするなら、
娘の方が僕より「魂の年齢が上」というのも在り得ることになるし、
各人が今生で与えられるジグソーパズルの断片の数と大きさは、その人の「魂の年齢」によって変わる、と言うこともできるなと思いました。
つまり、死の時点までに出来上がった部分が、次の生では一つの断片にまとまり、その分、ピースの数が減少する・・・
その繰り返しの中で、人の魂はジグソーパズルを完成させていく・・・・
そして、その完成形に描かれた絵は、
「自分とは何者なのか」を知らしめると共に、
「すべての本質」
「宇宙の絶対的真理」を表出している・・・
と、まあ、
非科学的な妄想はこの辺で止めておくとしても、この例えで言うなら、
僕にとっての人生は、
「試行錯誤を繰り返しながら、少しづつ、少しづつ姿を現してくるジグソーパズルの断片をつなぎ合わせていく行為」です。
ただ、僕は今生でこのジグソーパズルを完成させることはできないでしょう。
それでも、
完成形を見るために、日々、断片を探り、組み合わせ、
ストラグルし続けたいと思っています。
そうし続けることが「人生の意義」だと思うからです。
そして、いつか、
僕のジグソーパズルが完成する。
この達成こそが、
僕の人生における「成功」です。
小原啓渡
2008.02.15
スリ
「す」、今日はせつない「スリ」の話で。
イタリアのフィレンツェでのこと。
夏の暑い午後、駅前でジェラートを買いました。
さっそくペロペロ舐めながら店を出ると、赤ちゃんを抱いた母親と、まだ幼い女の子が二人、道を塞ぐようなかたちで僕の前に立っていました。
身なりを見るだけで、彼女達がかなり生活に困っているのはすぐに分かりました。
インドなどで極貧の人たちが、バックシシ(お布施)を求めてくるのは随分経験していたので、さほど驚きはなかったのですが、相手は乳飲み子を抱えた母親と女の子二人です、邪険にやり過ごすことができずに、立ち止まるようなかたちになってしまいました。
イタリア語は全く分かりませんが、ジェラートを子供にも食べさせたい、と言っているように思えました。
その間、二人の女の子達は僕にすがるように体に触れてきましたが、僕は母親の方に気を取られていました。
まさか、10歳に成るか成らないくらいの女の子が、「スリ」をするなど想像もできませんでした。
「お金じゃなく、ジェラートなら子供に買ってあげよう」
そう思って出てきたばかりのお店に戻り、2つジェラートを買って、支払いをしようとして、財布がないことに気付きました。
財布はベストのポケットに入れていましたが、そのファスナーも開いていました。
最初は、どこかに忘れてきたのか、落としたのかとも思いましたが、ついさっき同じ店でジェラートを買って支払いをしたばかりです。
あわてて、店の外に出ると、もうその親子の姿はありませんでした。
ショックでした・・・。
それまでに、かなり治安の悪い国や町に行ったことがありましたし、こうした話も人からよく聞いていましたが、自分が当事者になるとは思ってもいませんでした。
しかも相手は幼い子供です。
子供にスリをさせる母親、言われるままに(おそらく強制的に)スリをさせられる子供達。
こうした現実が存在するこの社会と世界に、何より深いショックを受けました。
「そこに、愛があんのかい!?」
思わず、そんな怒りで心がいっぱいになりました。
もちろん「そこ」は、
その母親であり、社会であり、国であり、人類であり・・・
そして最も問うべきは、「僕自身」でした。
小原啓渡
2008.02.14
死
「し」、思い切って「死」で。
実は僕、一度死んでるんです。
いやいや、ほんとです。
「心停止」及び「呼吸停止」ですから、ほんとです。
いつ、なぜ、どういう状況で死んで、なぜ、蘇生したかは、いつかちゃんと書こうと思っていますが、今回は「前説」として流します。
ただ、経験はしていても、実際のところ「死の瞬間」は全く憶えていません。
憶えていないので偉そうなことは言えませんが、一応「死」を経験しているという実績?だけは評価できるのではないかと思っています!?
そんな僕が持っている「死」のイメージは、
「生涯で最高の瞬間」
(不遜に聞こえるようなら申し訳ありません。これは全く個人的な見解です)
死に方にも関係しません。
(実際僕の死に方は、これ以上は無いくらい悲惨でした)
実のところ、このイメージがいつ、なぜ、僕の中に宿ったかは不明ですが、ひょっとすると、思い出せなくても、脳のどこかに残っている記憶と感覚が、無意識の領域で語っているのかもしれないと思ったりもします。
(こう考えると、何となく怖い気がしますが・・・)
ただ、
「最高の瞬間」だから「死にたい」あるいは「死んでもいい」と思っているかというと、とんでもない!
できることなら世界一の長寿になって、ギネスに載りたいくらいの勢いです。
時々、一旦死んで蘇生した人の話をテレビなどで見ますが、そういった人だけが参加できる「生き返りクラブ」とかがあれば、僕も是非登録したいと思っています。
そしてみんなに是非、是非、どうしても聞いてみたい。
「あなたがもっている、死のイメージは?」
小原啓渡
2008.02.13
サロン
「さ」、「サロン」で。
大阪の福島で「サロン&バー・アートコンプレックス」というお店ををやってました。いわゆる「プライベートサロン」ってやつで、表に看板もない、隠れ家的なバーでした。
お客さんは、知り合いが知り合いを連れてくるという連鎖で、文化芸術に関係する方がほとんどでしたね。
今は、「AC Depth」という名で、京都のFMで人気DJだった友人の「よしみなおみ」が切り盛りしてくれてますが、最初の1年間は僕がカウンターに入って、一人でバーテンダーをやりました。(もちろん、昼間も通常の仕事してましたよ)
もともと、大阪に事務所が必要になって借りた2階建の物件でしたが、仕事的には2階だけで十分、1階は広めの会議室か、みんなでパーティーとかできるスペースにしようと考えていました。
そんな時に知り合ったのが店舗デザイナーの森田恭通(もりたやすみち)さん。
昨年、大地真央さんと結婚されて、いきなり有名人になりましたが、当時から、すでに建築やインテリア業界では「世界を股にかけて活躍するするデザイナー」としてかなり著名でした。
森田さんの気さくな雰囲気と独特なセンスが大好きで、何度目かに会った時に、ほぼ冗談で
「プライベートサロンをやりたいんですけど、森田さんデザインしてくれません?」 と言うと、
「いいですよ!」 (あっけない程の即答)
困ったのは僕の方でした!?
ちょうどその頃、森田さんが抱えている物件が海外も含めて20件を超えていて、超多忙であることは知ってましたし、そもそも物件の規模が違います。
(NYのトランプタワーのレストランが完成して話題になっていた頃で、その時はロンドンのWホテルの仕事をされてました)
適当に流されて終わり、と予測していただけに、
「むっちゃ、狭いっすよ!」
「やるのなら、すぐやりたいので時間ないっすよ!」
「お金もあんまり無いっすよ!」
あわてて、自分から否定的要素を羅列する始末・・・
それも意に介さない感じで、森田さん、いつものシャンパン「モエ」を飲みながら、
「入口を入って全体が一望できる空間って結構難しいんですよ、ごまかしが利かないからデザイナーの力量が試されるんです、久々にやってみたいなぁ、一緒に創りましょうよ、条件はなんとかなるでしょう・・・」
ノックアウト?!!!(僕は笑いながらリングに沈みました)
(大地真央もきっとこんな感じだったんだろうなぁ?)
こうして、全くの素人バーテンダーが一人で悪戦苦闘する、
とってもおしゃれなサロンがオープンしたのでした。
小原啓渡
2008.02.12
番外
今日は、スケジュールがタイトで、書けそうにありません。
で、ふと思ったのですが、
「書けない」ということを「書く」
「言えない」ということを「言う」って、
矛盾ですが・・・、
意外に大切なことかもしれませんね。
小原啓渡
2008.02.11
混沌
「こ」、「混沌」に関して少しだけ。
「混沌」は英語で「カオス」、ギリシャ語にルーツがあるそうです。(おそらく、ギリシャ神話に関係するのだと思いますが・・)
「混沌」は、「混乱」を想起させる要素もあるので、一般的には微妙だと思いますが、僕にとっては、活動のコンセプトとして掲げている「コンプレックス(複合)」のベースにもなっている重要な概念です。
つまり、新たなる「複合」を創造し、その滋養となる「場」
そんな「場」を具現化したいとオープンしたのが「C.C.O(クリエイティブセンター大阪)」だと言えますし、さらに、ソフト的「磁場」として「アートコンプレックスグループ」全体が機能すれば理想だなと思っています。
僕にとって「カオス」は、「無限の可能性を秘めたもの」としても魅力的ですが、これを何かに例えるなら、まさに、
「泥」ですね。
様々な鉱物、植物、微生物、水、空気・・・の混在。
生物が生き、死して腐敗し、新しい命の糧となる循環の「場」
そういった意味において「泥」は「カオス」を象徴しているように思います。
そして、その泥に根を張って咲く蓮の花に、多くの人が「力強さ」と「清廉さ」を感じ取るのも、ごく自然なことだと思います。
いつの日か、モネの「睡蓮」のような情景を、C.C.Oで見てみたい・・・
僕のひそかな願いです。
小原啓渡
2008.02.10
ケーキ
「け」、「ケーキ」の思い出を。
僕がテクニカルディレクターとして、フランスツアーに参加していた時の話。
かなり強硬なスケジュールで、ほとんどオフの日がなく、やっとパリで1日だけ休みがとれた日、
久しぶりにぐっすり昼前まで眠って、コーヒーを飲みに、寝ぼけ眼でホテルを出ました。
すると、ホテル前の壁に寄りかかって、ジョンポール・モンタナリが立っていました。
彼は、モンペリエ国際ダンスフェスティバルのディレクター、つまりトップです。
ダンス界では世界的に有名なディレクターで(前回来日した時も「マリークレール」に大きくインタビュー記事が出てました)
僕が世界で一番と言っていいくらい憧れている男性です。
ヒョウキンな表情をたくさん持っていて、いつも穏やかな微笑みを浮かべている紳士。
パリッとした趣味のいいジャケット、すらりとまっすぐに伸びた背筋。
ゆっくりとした丁寧なしゃべり口調と、ユーモア溢れる会話。
もちろん外見だけではなく、仕事は世界のトップレベル、クオリティーもセンスも超一級。(ピナバウシュを紹介してくれたのも彼)
年齢は僕より一回りほど上ですが、驚くほど若々しい。
彼のことを描写しようとすると、際限なく賛辞の嵐になってしまいます。
そんな、彼が立って僕に笑いかけている。
驚きの余り、いつもより強くハグし合って、
「何で?なんで?こんなところにるの!?」(彼は南仏に住んでいた)
「ケイト、君をを待ってた」
「???」
「パリに仕事があって来てたけど、今日これからモンペリエに帰る」
「そう、でも、ほんとはなんでこのホテルの前にいたの?」(僕は、彼が冗談をいっていると思っていた)
「君がパリに入っているのは知ってたし、いつもこのホテルだろ?、だから待ってた」
「知ってたら、ホテルに電話くれりゃいいし、フロントから呼び出してくれたらよかったのに・・」
「それは、僕のやり方じゃない・・・しばらく待って会えなければ帰るつもりだった。でも、ほら、君は出てきた」
「とにかく、あまり時間がないから行こう!」
「どこへ?」
「カフェ」
彼が連れて行ってくれたのは、ポンピドーセンターのすぐ近く、インテリジェントな雰囲気がさりげないカフェ。
「ケーキ、食べよう!」
彼はエスプレッソを2杯となぜか一つだけチョコレートケーキを注文した。
「今日は僕のバースデーなんだ」
大人の男が二人で、小さなチョコレートケーキを半分づつ分け合って食べた・・・・。
それからパリに行くたびに、必ずこのカフェに立ち寄るようになった。
「それは、僕のやり方じゃない・・・」
ジョンポールの言葉を思い出しながらエスプレッソを飲む。
小原啓渡