小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2008.01.30
ロンドン
「ろ」、「ロンドン」での話。
色々な列車を人格化したキャラクターがローラースケートを履いて、舞台を所狭しと走りまわるミュージカル「スターライト・エクスプレス」がヒットした頃、確か、ロンドンの「アポロシアター」だったかと記憶していますが、仕事の合間に僕も見に行きました。
職業柄、劇場自体を見たいという思いもあって、開演時間より少し早めに劇場に入りました。
最終的には満席になった客席も、開場直後で着席している人もまばら。
僕の席は、通路から内へ2つ目。
僕の隣、通路側に黒いレースの服を着た老婦人がちょこんと一人座っていました。
背中を丸めて、まるで日本のおばあちゃんのように小さい人でした。
一瞬、列を間違えたかなとチケットを見直したのは、ヨーロッパでは特に、こうしたミュージカルを一人で見に来ている人は少なかったからです。
しかも「スターライト・エキスプレス」はどちらかというと若者向けのミュージカル。
いくら観劇文化の層が厚い国だとは言っても、正装したおばあちゃんが一人、というのが何となく気になって、僕もとりあえず着席することにしました。
彼女は僕に気づくとやさしく微笑んで、小さい体をもう一段縮めて、前を通してくれました。
そして僕が座るなり、「ちょっと早過ぎちゃったみたいね」と声をかけてくれました。
うっすらと化粧もされていましたが、80才くらいに見えました。
「ひょっとして、誰かお知り合いが出演されているのですか?」と聞くと、
「主人が、アンドリュー・ウェバー(作曲家)を好きだったの・・・」
と、ちょっとはにかむように答えてくれました。
僕の席、
本当は亡くなられたご主人が座られるはずの席だったんですね。
小原啓渡
2008.01.29
レンブラント
「れ」、迷わず「レンブラント」
レンブラントは、17世紀を代表するオランダの画家です。
光のとらえ方、扱い方が彼の作品の大きな特徴で、その繊細かつドラマチックな技法から「光の画家」あるいは「光の魔術師」とも呼ばれています。
曲がりなりにも、舞台照明の技術者としてこの業界に入った僕にとっては、「光」とは何なのかという哲学的な命題も含め、避けては通れないアーティストの一人でした。
照明の仕事が、技術からデザインへ移行していった時期、レンブラントをこの目で見たくて、オランダに行きました。
目指すは、レンブラントの作品を最も多く所蔵している
「アムステルダム国立美術館」
ネオ・ルネサンス様式の荘厳な建物の入り口を入って突き当たり、いきなり、「夜警」(ちなみに作品の名前)が迎えてくれます。
「デカイ!!!」
その大きさは4M×3Mをゆうに超えていたと思いますが、壁一面、圧倒的な迫力です。
それまでに何度も画集などでは見ていましたが、所詮は大判のブックサイズ。
そして、「青年期の自画像」へ
「小さい!!!」
実物は、僕がみた画集より感覚的にずっと小さかった。(15CM角くらい)
何だかサイズばかりに驚いていて、ほかに感想ないの?って言われそうですが、僕にとっては第一印象として、かなりのショックでした。
それ以前、歌舞伎を初めてテレビ中継でみた時に感じた「なさけなさ」というか「白々しさ」は、本物をリアルタイムに見た後の話でしたし、絵画においても、ルーブルで実物の「モナリザ」を見た経験などもありましたが、その時はそれほど驚いたという記憶がありません。
これは、この2つの作品のサイズがあまりにも違っていた(ネズミと象くらい)にもかかわらず、画集ではほぼ同じサイズで載っていたという理由と、やはり作品に対する僕の思い入れの違いからだろうとは思います。
まあ、それにしても、まさに「目からうろこ」的な経験でした。
そんなわけで、2日目は、あえて先に図録を買って、その図録に載っている写真と本物を見比べてみることにしました。
これまた、ビックリ!
かなり精巧な印刷技術を使っているとは思いましたが、色が全然(僕的には)違います。
そして何より「質感」
もう、お話になりませんでした。
また、熱や紫外線などによる劣化を防ぐため外光をシャットアウトしている美術館が多い中、アムステルダム国立美術館は自然光で作品が見えるようにできています。
3日目は、一日中館内で過ごし、朝見る絵と夕方の光の中で見る絵が違うことも、実感として知ることができました。
「本物とは何なのか?」
「本物を知るとはどういうことなのか?」
僕にとってレンブラントは、その意味を垣間見せてくれた画家なんです。
小原啓渡
2008.01.28
ルックス
「る」から始まることばって、意外に少ないですね。
なかなか思い浮かばずに、「ルックス」
「ルックス」といえば、やはり「イケメン]ですかね。
「イケメン」で思い浮かぶのは、そう、大柴拓磨くん、錦戸亮くん、それと小原悠路くん?です。
大柴君は、昨日までブラックチェンバーで公演をしてくれてました。日本人男性で唯一、フランス国立パリオペラ座と契約した若手ダンサー。
錦戸くんは、いわずと知れた関ジャニのメンバー、今大人気ですね。
それと、なぜか、僕の息子くん。(ランクイン!)
共通するのは、ただ美形というのではなくて、性格の良さが顔に出てること。
気取りがなくて、やさしそうな甘い微笑が作り物じゃない。(テレビとかでは微妙ですが・・普通の時の話)
上位2人は他人なので、しげしげと「ほんま、イケメンやなぁ」って何か美しいモノを見るような感じですが、息子の場合はなんか複雑です。
「血がつながっているのに、なんでこんなに僕と違うの!」っていう一種のヒガミ?です。
僕が落ちた早稲田にすんなり現役で入ったってこともありますが、たまに「コンニャロー」って感じで、柔道に持ち込んで関節技でいじめたり、お小遣いをケチって憂さ晴らしをしています!。
「何で僕は息子に似なかったのだろう?」と
わけの分からない疑問を感じつつ、もっと大きな疑問は、
「悠って、血液型は何?」って聞くと
息子も、奥さんも、口をそろえて、
「知らない、調べたことない」
という答えが返ってくる事実です!?
これって、かなりブラックですよ、ね?
小原啓渡
2008.01.27
番外
今回は、ちょっと、番外です。
今日、芸術創造館で「BABY-Q」の公演がありまして、楽日でした。
最高の舞台でした。
打ち上げがありまして、なぜかメンバーおよびスタッフが僕の部屋(めちゃ狭い)に10数人、来まして。
どうにもならない状態で、今月初めて、まともにブログが書けません。
また、明日通常に戻ります。
それでは、明日。
小原啓渡
2008.01.26
リスク
「り」、「リスク」で。
「リスク」って、基本的には「事物が潜在的に持っている危険性」のことだと思いますが、「リスクを持つ」というような使い方の場合は「責任」という言葉に置き換えることもできます。
「リスクマネージメントをする」ということは、最悪の場合を想定してその対策を考えておく、というような意味ですね。
リスクは、「危機」とか「損失」とかに関連しているので、何かと「悪者」扱いされる場合が多い気がしますが、僕にとっては「力強い味方」です。
「責任」を持てることにやりがいを感じますし、ある時点で「良い」と思えることも「悪い」と思えることも、客観的にみれば一つの「事象」「現象」でしかありません。
起こった事象をどう感じ、どう捉えるかは完全に主観的な問題だと思っています。
そういう意味では、「最良の事態」も僕にとっては、「リスク」かもしれません。
往々にして、最高の状態ほど危機を内包しているともいえますから・・・・。
また、リスクは、「リターン」と一対になって語られることが多いですね。
「ローリスク、ローリターン」といった具合です。
リターンとは、リスクに対する報酬ですから、例えば、ルーレットなどの賭けを考えれば明白ですが、数の論理からいうと、高いリターンには高いリスクが必要ということになります。
また、社会現象、例えばトレンドといったものにも、統計学的な数の論理を応用した「分析」が用いられています。
しかし、現代社会は急激な情報化に伴って、より不確実な性質を増しているということも事実です。
つまり、過去の数値を分析することによって未来を予測することが、非常に困難な時代に入ってきているということですね。
何が言いたいかというと、数的なリターンを考えてリスクをとる、という考え方は現代にそぐわないのではないか、ということです。
それでは、何を考えてリスクをとるのか?
僕の場合は、「数字では表せない価値」ですね。
この価値は「社会的貢献の度合いに裏打ちされる」とでも言えば優等生なのでしようが、残念ながら僕の場合の価値基準は、「自分」です。
自分がやりたいと思うか?
自分の価値観においてやるべきだと思うか?
リスクは実現を後押ししてくれる大きなエネルギーに成り得ますので
その思いが強ければ、高いリスクも歓迎します。
もちろん、そうすることが最も高いリターンにつながると信じているところもありますが・・・・。
小原啓渡
2008.01.25
ラジオ
「ら」ですね、「ラジオ」でいきましょう。
何年か前、京都のローカルFMで1年間、パーソナリティーをやったことがあります。
「ステージ・アバンギャルド」という週1回、約1時間の番組でした。
毎回、ゲスト(舞台関係者)に来ていただいて、ゲストが好きな曲を、ブレイクで挟みながらのトーク番組です。
生ではなく、収録だったということもありますが、打ち合わせは電話、台本なしのぶっつけ、編集もほとんどなしで1年間やり切りました。
「忙しいから・・」ということでわがままを通しましたが、そもそも、形ばかりの打ち合わせや準備ってものが好きじゃない。(もちろん、仕事の内容によっては、必須ですが・・・)
「状況に応える」
ってことばが好きです。
状況って常に変わり続けてるし、予測できないハプニングもある。
その瞬間、瞬間の状況に応えることが、ベストな選択だと思っているところがありますね。
あまり準備し過ぎていると、それにとらわれてしまう傾向が、僕にはあります。
僕にとっての「準備」とは、
「自分が何者であるかを知ること」
「自分の価値観、軸を明確にすること」ですね。
この準備さえ、ある程度整っていれば、どんなものにも対応できます。
あれ?
話がずれてきてますね。
「ラジオ」です。
一度だけ、ゲストと収録日の都合が合わなくなり、一人で1時間しゃべったことがありました。
大学の講義などは1時間半ですから、長く話すのは慣れてますが、対象が目の前にいます。
相手に話を振ったり、反応を確認しながら話すのと、独り言のようにスタジオの中で話すのとはずいぶん違います。
確か「小原ケイトの○○講座」とか勝手にテーマを決めて、しゃべったと思いますが、(ガラス越しのディレクターとエンジニアの顔色を唯一の手がかりに・・)
徐々に暴走。
やばいかな、と思いながらも、止めてくれる相手もいない。(ディレクターは、かなり楽しんでいるように、僕には見えた)
暴走は暴走に拍車をかけて、超暴走したまま番組終了!
さすがに、ディレクターも「録り直し」を提案してくれましたが、スタジオのスケジュールが一杯。
結局、「ギリギリセーフかな?」ということで、そのままいくことになりました。
しかし、間の悪いことは続くものです。
その放送を、たまたま、こともあろうに、局の社長が車の中で聞いていた!
「超・厳重注意!!」
まあ、こういう事もあるので、みなさんは、ちゃんと準備をしてくださいね!
小原啓渡
2008.01.24
余韻
や行の「え」は、「い」同様、重複と見なして、
今回は「よ」、「余韻」で。
「余韻」って好きですね。
基本的には、音に関しての言葉だと思いますが、もっと広く「振動」や「波動」といったもの、あるいは、感情面での表現にも使います。
「余韻」は、鐘の音が空間に消えていくように、
水滴が波紋を広げ、水面に溶けていくように、
「見えない世界」、「聞こえない世界」に流れていきます。
「動」から「静」へ
「有」から「無」へ
知覚できる世界から、知覚できない世界への移行。
この領域に存在するのが「余韻」だと思います。
そう考えると、「余韻」は未知の世界へ私たちを導いてくれるマスターなのかもしれませんね。
余韻をもって、今日はここまで・・・・・・
小原啓渡
2008.01.23
優勝
今回は、や行の「い」?です。
「や、い、ゆ、え、よ?」
このや行の「い」と「え」は何なんですかね?(あ行のと、どう違うの?)
まぁ、調べるのは後にして、一応「重複」ということで、今日は「ゆ」。
「夢」とか「友情」とか「勇気」とかありますが、今日は何となくこの辺を書くのが気恥ずかしので、「優勝」とか。
「僕って何かに優勝したことあったっけ?」と自問。
これが、ほとんど思い浮かばないのですが・・・・。
一つは、中学時代のマラソン大会。
もう一つは、高校時代の「逆立ち競争」?
僕の高校は、公立ではそこそこの進学校でした。
が、どう贔屓目にみても、つまらなかった。
(当時の話ですが・・・)
とにかく、やたらと、異常に、「硬い」。
ダサい学生帽と名札まで着けさせられて、登校時には生活指導の教師が校門に立って、髪型や制服のチェック。(中学ではなく、高校ですよ!)
学級委員は成績順で決められ、勉強のことしか考えるな!的な雰囲気が充満していました。
じゃあ、なぜ、こんな高校に下宿までして入ったのか?
中学時代から付き合っていた彼女が、この高校に行くと言ったから。
理由はそれだけでした。
とにかく、こんな堅苦しい高校ですが、唯一僕の興味を惹き付けたのが、体育祭の名物プログラムだった
「逆立ち競争」
いったい、どういう経緯で、こんな競技が、このガチガチ高校の体育祭のプログラムに加わるようになったのかは謎ですが、とにかく僕にとっては、確かに、一つの「救い」でした。
この競技、各クラス(一学年10クラスほど)から一人代表を選んで、全校で約30人、どれだけ遠くまで逆立ちをして歩けるか(時間は無制限)を競うというそれだけのものでしたが、その単純さゆえか、日頃の圧迫に対する生徒たちのストレスゆえか、毎年異様に盛り上がっていました。
クラスの代表になるのは概ね体操部で、それゆえ柔道部だった僕に声がかかるということはない。
それでも僕は、ひそかに1年の時から、この競技に出たくてしかたなかったのです。
「これに出なければ、僕の高校生活は無駄に終わる」
大げさに言えば、それくらい出たかったわけです。
そして、3年になり、ついにそのチャンスが巡ってきました。
「クラスに体操部がいない!」
僕は思い切って名乗り出て、クラスの代表になりました!
柔道部だったので(一応黒帯)、腕力には少々の自信があり、握力はクラスで一番でした。
が、しかし、実はですね、逆立ちがまともにできなかったんです!?
その日から、一人きりの猛特訓が始まりました。
(逆立ちができないことを断じてみんなに知られるわけにはいかない!)
早朝、ロッキーのテーマで目覚めて、走り込み。
通学用の自転車を思いっきり前かがみのハンドルに変えて、体重を腕にのせて走る。
授業中は、両腕で上半身を浮かせて座る。
放課後の柔道部の練習は、腕立て伏せを中心に。
帰宅後は、夜まで近くの小学校のグランドで逆立ちの練習、練習、また練習。
いやはやこんな具合で、勉強など一切せず、ただひたすら、ひたすら・・・・。
そして、体育祭当日!
全員が一列に並んで、同時にスタート。
逆立ちをしてしまうと、全くまわりが見えない。
50メートルラインを通過してからは、声援さえ聞こえなくなった・・・・・・
・・・・・・ついに、力尽きて、崩れ落ちる。
朦朧としたまま、周りを見回す。
一人だけ、まだ僕の後方で逆立ちを続けている。
徐々に僕に迫ってくる。
歓声が一段と大きくなる。
「抜かれるかもしれない」
そう思った途端に、あっけなく、彼は体勢を崩してグランドに倒れ込んでいきました。
「ぼ!僕が優勝!?」
砂ぼこり、歓声、そして
競技終了を告げるピストルの音・・・・・
この瞬間、
僕の高校時代が、
僕の高校生活のすべてが、
完全に、
終わったのでした。
小原啓渡
2008.01.22
屋号
「や」、歌舞伎が好きなので、「屋号」で。
「日本における屋号は、江戸時代において士農工商の身分制度により武士以外の者が苗字を名乗ることが認められなかったため、商人や大きな農家が、取引をするための必要性から、あるいは日常生活上の必要性から屋号を使うようになった。歌舞伎役者の屋号は、江戸時代に商人や豪農にならって用いるようになった。市川家の「成田屋」が屋号の始まりと言われている。」(wikipedia)
と、まぁ、歴史的にはこういうことらしい。
現在、歌舞伎に関しては50以上の屋号が存在していますが、現状として「大向う」から頻繁に声がかかる屋号といえば、「成駒屋」「高麗屋」「音羽屋」など10に満たないと思います。
「大向う」というのは、簡単にいうと、演目の中の「決め」の部分、具体的には「見得(みえ)」を切る部分などに絶妙のタイミングでかかる客席からの声(あるいはその人)のことですが、宴会の席などで聞かれる「よっ、日本一!」「色男!」などは、ここからきてるんですね。
この「大向う」、何でもないようですが、実はかなり歌舞伎を盛り上げるのに貢献してるんです。
一般のお客さんには分かりづらいかと思いますが、私のようなスタッフは一つの演目を約30日間見続ける(歌舞伎の興行は大体1ヶ月単位)ことになるので、役者の日々の調子や、演目自体の盛り上がりの差もよく見えてきます。
「なんか今日は締まらないなぁ」と思う日は、実際、「大向う」が少ない場合が多いですね。
「屋号」で思い出すのは、昭和時代の「南座」が改築のために取り壊される時、最後の舞台で、今は亡き藤山寛美さんが、この数ある屋号を大向うのようにかけ続けた場面です。
歌舞伎小屋の風情がたっぷり残っていたあの旧南座に随分とお世話になった僕にとって、あの情景は忘れることができません。
また、この改装時期に一度だけ、「顔見世」が祇園の甲部歌舞練場で行われたのですが、その興行での實川延若(じつかわ えんじゃく)の「落人」も、くっきりと心に残っています。(お軽は梅幸さんでした、今から思えばスゴイ組合せです!)
あの公演のすぐ後に延若さんが亡くなられ、「河内屋」の屋号は途絶えました。
勘平を演じる延若さんが、追っ手を蹴散らして、切った大見得、その時一斉にかかった
「河内屋!!」
最後の「屋号」を、この耳で聞いた自分を誇りに思っています。
小原啓渡
2008.01.21
モロッコ
「も」、「モロッコ」での話。
いつ、何の目的で、どれくらいモロッコにいたのか、なぜかはっきりと憶えていない。
カサブランカからマラケシ行きの長距離列車に乗った。
4人がけのボックスシートで、向かいの席には品のいい白人の婦人と若い女性の二人連れ。
二人の会話はフランス語。
僕のフランス語は、何に関して話しているのかがわかる程度。
親子のようにも見えるが、肌の色や顔つきが違うので、一体どういう関係なのか気になった。
若い女性の方は、エキゾチックな顔つきで、どこの国の人なのか予測できないほど個性的で美しかった。
彼女は、チョコレートや軽食を僕にわけてくれた。
自然に、一言もなく、笑顔で、食べ物を手渡してくれる。
渡されると、僕も自然に受け取ってしまう。
何度かの「メルシィ」
数時間の列車内で交わした会話はそれだけ。
マラケシに着いたのは深夜だった。
いつものことだが、ガイドブックも持たず、ホテルの予約もしていない僕に、中年女性の方が声をかけてくれた。
「ホテルはどこ?」
決めていないことを告げると、自分たちが泊まっているホテルを勧めてくれた。
「もう夜も遅いし、彼女がホテルで働いているから、とりあえず、今夜はそのホテルにした方がいい」というようなことを言ってくれる。(フランス語でもそれくらいは分かる)
こうして、思い出あふれるモロッコでの滞在が始まった。
ホテルはオレンジ林の中にあり、客室、環境ともに至極快適だった。
カティー(若い方の女性)は、モロッコ人とフランス人のハーフで、そのホテルのレストランバーでハイシーズンの間だけ契約しているクラブ歌手だった。
ルティー(中年の婦人)は、毎年このホテルで夏の長期休暇を過ごしているフランス人、二人は親友とのことだった。
カティーの仕事は夜だけなので、日中は三人でランチをとり、プールのデッキで昼寝をし、オレンジをもぎっては食べながら林の中を散歩した。
毎日毎日、夕方になると「スーク」と呼ばれる迷路のようなバザールに出かけていった。
カティーもルティーも英語をしゃべらなかったので、僕と二人の間に言葉でのコミュニケーションはほとんど無かったように思う。
散歩をしながら、毎日少しづづ、カティーに「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の歌を教えた、それくらい。
僕がマラケシを発つ前の夜、
カティーがステージの最後に「赤とんぼ」を歌ってくれた。
驚くほど流暢な日本語で・・・・。
臆面もなく、涙がポロポロこぼれた。
旅って、人との出会いの中で、より豊潤になっていくんですね。
小原啓渡