小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」
2007.02.04
縁
う?ん、なかなか書けません。
なんだかんだ言っても、結局は忙しすぎるのでしょうか。
今日は「え」
「え」と言えば「演劇」とか「映画」とか、アートに関するテーマはいくつもありますが、「縁」について、という読者の方からの要望がありましたので、前回の「運命」に続き、少し哲学的なテーマでいってみたいと思います。
「哲学は、すべての学問や思考の中心にあるものであり、それらを統合するもの」だと言われていますから、常に本質的に物事を考察したいと願う僕にとって、哲学的なテーマは重要です。
さて、地球上に60億以上の人間がいる中で、一人の人生で出会える人数ってどれくらいでしょう。
一日3人に出会えたとしても1年で約1000人、60年でも6万人ほど。
そのうち日常的に関係をもって付き合っている人となると、数十人程度ですよね。
そう考えると、結婚相手とか仕事の同僚などは、奇跡的な確率の中で出会った人々ということになります。
輪廻の中で、過去生で関係のあった人々が、関係性を変えながら現世でも関係を持ち続ける「ソウルメイト」という考え方があるのを以前本で読んだことがありますが、かなり興味深い話です。
前回の「運命」でも書きましたが、僕は「偶然も必然」といった考え方がありますし、輪廻に関しても、どちらかと言うと肯定的に捉えているので、「ソウルメイト」もあり得る話だなと思っています。
「縁」とは、「relation」ですが、目には見えないつながりだからこそ、注意深く、大切に扱いたいと思っています。
小原啓渡
2007.01.14
運命
「う」が頭に来る言葉、たくさんありますね。
考えているうちに、選択する行為の中に人の価値観や、興味の対象、現在の心境などが如実に出るものだなと思い至りました。
人はあらゆる局面、瞬間に、無意識的な判断も含め、選択を繰り返しているわけですから、その集積がその人の人生を形づくるものなのかもしれません。
もちろん自分が選択されるかどうか、という局面も人生の中にはありますが・・・。
それでは、運命とは何なのか?
先天的なものなのか?後天的なものなのか?
宿命という言葉もあるが・・・?。
私の場合は「偶然も必然」という考え方があるので、どちらかといえば運命論者というか、人生のベース部分は、何かによって、予め決まっているのではないかと考えています。
もちろん、自身の判断と選択で創り出していく部分も大きいとは思いますが、やはり、人には各々の宿命的な役割があり、それらが過不足なく絡み合ってこの世が成立しているのではないかという気がしています。
「流れに逆らわず、さりとて流されるのでもなく、ただ流れる」
という理想を持って日々生活している私にとっては、この「流れ」こそが「運命」なのかもしれません。
小原啓渡
2007.01.06
インド
「い」で始まる言葉で思い浮かんだのが、やはり「命」です。
昨年のクリスマスに幼なじみの同級生が亡くなり、色々考えました。
命への思いも含め、今回は敢て「インド」でいきたいと思います。
インドはある意味、僕の原点です。
大学を中退してインドに渡ったのは1982年、もうかなり昔です。
全てを捨てる覚悟で国外脱出した先がなぜインドだったのか?
いくつかの理由が折り重なった中で、藤原新也さんの撮った一枚の写真がありました。
ガンジス川岸で野犬が人間の死体を食らっている写真です。
(彼の著書「メメントモリ」で見ることができます)
僕がこの写真を目にしたのは、今は無き「フォーカス」の創刊号でした。
写真の右上に「人は犬に食われるほど自由だ」と書かれてありました。
当時の僕にとっては、かなりの衝撃でした。
インドに強い興味を覚えました。
当面の衣服と手持ちのお金以外すべての所持品を処分し、誰にも言わずに向った現実のインドは、まさに「混沌」でした。
何もかも、生も死も、美も醜も、善も悪も、貧も富も、あらゆる相対する要素がなんのベールも掛けられず、そのまま混在している世界がそこにありました。
そんなインドを約1年にわたり放浪しました。
「人は犬に食われるほど自由だ」
この言葉が言わんとする「自由」を、僕はインドで学んだのだと思います。
小原啓渡
2007.01.05
謹賀新年
あけましておめでとうございます!
今日から芸術創造館の仕事始めです。といってもアートコンプレックス1928では年越しイベントでヨーロッパ企画、ブラックチェンバーでは年越しのクラブイベントをやり、元旦から各施設では仕事が始まっています。
とにもかくにも、新年!しかも、「あ」から始めるブログリニューアルに、「あけまして・・・」ですから、まるで狙ったような再出発になりました。
今年は頑張って書きます。
本年もよろしくお願い致します。
皆さんにとって、2007年がすばらしい年になりますように!
小原啓渡
2006.12.17
足らぬ足らぬは工夫が足りぬ
このブログを始めて4ヶ月ほど経ちましたが、どうもしっくりきません。
基本的に日記という形式ですから、毎日書かなければダメですよね。
忙しいという言い訳をするのも嫌なので、何とかもっと書けるように工夫しなければならないと思い始めました。
忙しくない、というのも嘘になりますが、忙しくてもこのブログの優先順位が高ければ、時間のやりくりは可能な場合もあります。
自分にとってこのブログを書くという作業の優先順位を高めるにはどうすればいいか?
まずは、義務的に書くのではなくて、自分が面白くなければダメですね。(現状が面白くないというわけでもないのですが)よくよく考えると、いつも書くテーマに迷っているところがあります。
仕事柄「アート」に関して書いた方がいいだろう、という思いがありつつ、あまり批評的なものも書きたくないし・・となると、書ける題材が限られてきます。
写真もちょっと問題。
分かり易いかなと思って、基本的に写真を載せることにしていますが、このことにこだわると、写真を撮ってないので書けない、っていうことになる。
あと、書いたものに反応がないのも何とも変な感じ。(もともと日記は人に読まれるものではないのですが・・でもこの場合、読まれることを前提に書いている)。
一体誰に向かって書いているのか?誰が読んでるのだろう?てな感じで、ムズムズするというのもあります。その他にも色々原因はありそうですが、取りあえずはこの3点くらいを修正するための工夫をしてみようと思います。
対策1-とりあえず、アートとか仕事関連のテーマから離れてみる。具体的には「あ」から始めて「ん」まで、つれづれに。
対策2-写真を掲載することにこだわらない。
対策3-読んで頂いている方々から意見や感想を聞く。
まあ、こんな感じで修正してみます。これでもうまくいかなければ、また修正すればいいでしょう。
「足らぬ足らぬは工夫が足りぬ」
昔の人はいいこと言いますね。
小原啓渡
(ご意見・ご感想は keito@artcomplex.netまで。)
2006.12.12
金沢蓄音器館
先日、創造都市会議の一環で行われている「金沢学会」のシンポジウムに呼んで頂き、金沢に行ってきました。
たまたま僕がお会いする方々だけなのかもしれないけれど、金沢には文化人のみならず経済界にも、とても生き生きとして素敵な人たちが多い。
2日間の学会が終わった後、「金沢蓄音器館」を案内して下さった八日市屋さん(当館の館長でもある)もそんな素敵な方でした。
彼のお父さんが生前にコレクションされた国内外の蓄音器540台、SPレコード2万枚を基に金沢市が元銀行だったビルをリノベーションして造りあげたのがこの「蓄音器館」。当時、家2軒が買えたほど高価だったものから、携帯用のものまで、様々な蓄音器がどれも完璧に整備されて、音の出る状態で展示され、聞き比べてみることも出来る。
僕はナット・キング・コールの「枯葉」をリクエストして、八日市屋さんお勧めの蓄音器で聞かせて頂いたが、何とも言えない豊かさを含んだ音の深みと、実体験としては知るはずもない古き時代への郷愁で、心底感動しました。
八日市屋さんは、自ら現代の音を蓄音器に取り込んで再生するインターフェースを開発され、特許も取られて、製品化されたらしいが、既に完売。ただ、ボディーに傷があり1台だけ残っているというので、無理を言って譲ってもらうことにしました。
その1台が今日金沢から芸術創造館に届きました。(写真)
早速ホワイエの受け付けに設置し、お気に入りのオーティス・レディングをかけました。デジタル化された音に慣れた耳には、蓄音器で聞くレコード音は逆に新鮮です。
ライブではないけれど、デジタルよりずっとライブ感があるっていうのも素敵です。
小原啓渡
2006.11.28
100円ガラクタ市
芸術創造館の近くで平日の夕方からひっそりと開かれているがらくた市があります。
実際のところ、市(いち)というにはあまりにも適当で、なんとなく普通の雑貨屋さんの店先で廃品を投げ売りしているって感じですが、僕はハマッています。
商売っけなど全くなくて、基本的に何でも100円、しきっているおじさんの発音だと「ヒャッケン」。
一つ100円というより、ひとかたまり「ヒャッケン」。
例えば、一枚のお皿も「ヒャッケン」なら、同じお皿が5枚セットになっていれば、それもまとめて「ヒャッケン」。時には、これは流石に100円では安すぎると思われるものもあり、「おじさん、これなんぼ?」と聞くと「う?ん、それは高いど、ニヒャッケン」。
まあ、こんな感じですから300円ほど握りしめていれば充分楽しめます。
実際のところ、商品(商品という言葉が適切かどうかも疑わしい代物)が20あっても、まともな形をしているもの、壊れていないものは、2?3個ですね。
でも、面白いもの、珍しいもの、思いっきり古いもの、思いっきりほこりをかぶっているもの?など、色々あって、ちょっとした気晴らしには最適です。
今日は、額を「ヒャッケン」で買って来ました。
単純に飾ってあった絵か何かが無くなって、台紙が見えているだけの欠品ものですが、その台紙の青が鮮やかなので、まるで現代絵画のように見えます。
早速、芸術創造館の受け付けの壁に飾りました。
また、面白いものを見つけたら報告しますね。
小原啓渡
2006.11.26
ロワイヤル・ド・リュクス
なんと、1ヶ月以上書けていませんでした。
自分でもちょっとびっくりです。
いったいこの間、何をしていたのか。
ざっと振り返ってみると、たしかにバタバタの毎日であったことは確かです。
海外出張はフランス、アメリカ、カナダ、国内での出張も多く、出張が多いほどデスクワークも過密してきます。まあこれはいつものことですが、ジェットラグでふらふらでも休める状況は無かったですね。
それでも、海外や地方で色々刺激を受けて、ますます元気です。
この1ヶ月で最も感動したのは、フランスのルアーブルという街で見た「ロワイヤル・ド・リュクス」です。(写真)
巨大な人形?(人ばかりではないので微妙ですが・・今回の作品は象と少女)が4日間に渡り、実際の街を舞台に物語を紡いでいきます。
ストーリーは至ってシンプルですが、港で少女と象が別れるラストシーンでは何十万という観客が涙するんです。
実は僕も泣いていました。(やられたなって感じです)
ディレクターのジャンリュックは見るからに変なおじさんで、来日したとき、ナムラ(C.C.O)にも来てくれましたが、改めて彼の偉大さを実感しました。
何十万という人を同時に感動の渦に巻き込むことは大変なことです。
アートにはこうした力が有るんですね。
僕もいつか何十万という人々を感動させることができる作品をプロデュースしたいと心底思った次第です。
頑張ります!
小原啓渡
2006.10.10
ガラス
千林商店街を歩いていると、閉店した店の前に「ご自由にお持ち帰り下さい」と張り紙があって、不要品が並べてありました。
ほこりをかぶったものばかりだったためか、立ち止まる人さえいなかった感じですが、僕ってそのへんは妙に「めざとい」っていうか、ガラスコップが目に入りました。(写真)
好きなものって、目に入って来るんですよね。
古いガラスが好きなんです。
コップや小物入れなど、特に電気の傘に魅かれて、かなりの数をコレクションしてます。
ガラスというと「ガレ」とかが有名ですが、そんな高価なものではなく、数千円程度のがらくたっぽいものがほとんどですが・・・。
古いガラスは、手作りというだけでなく、現在とは製法が違い、銅などが入ってるので、色合いや透明感、手触りに何とも言えない味わいがあります。
偶然封じ込まれた気泡なども僕にとっては魅力です。
特に、年代物の薄手のガラス食器などに出会うと
「よくもこんなに長い年月、割れずにいたよね」って感じで愛しくなります。
飾り物でなく、日常的に使用されていながら、誰も落とさず、欠けることなく残っているガラスって、ある意味奇跡的な気さえします。
今日もらってきたこのビールグラスも、ほこりを払い、丁寧に洗浄すると、出来た当時の透明感が蘇ってきました。
ささやかですが、「うーん、ラッキー!」って感じで、
今日一日幸せでした。
小原啓渡
2006.10.09
時(とき)
「もしこの世に真実というものがあるのなら、それは、時は流れるということ」
と言ったのは、太宰治ですが、なんとも深いな?と感じ入ってしまいます。
前回書いたブログの日付を見て、思い出した言葉です。
あっという間に2週間くらいが過ぎています。
人の一生も「アッという間」なんだろうなと思います。
自分が死ぬ瞬間、70年生きようが、100年生きようが、「アッという間だったな?」って思うんでしょうね。
時の流れに対しては、「流されずに、流れよう」っていうのが自分の姿勢です。
流れに逆らわず、流れに乗るっていうか、流れをしっかり知覚できれば、流されずに、流れることが出来るんじゃないかと・・・。
無限の関係性によって、変化し続ける自分や社会や今という時間を、しっかりと観察しながら、心静かに流れていきたいです。
何だか大層な話しになりましたが、ブログ書かなきゃ!ってことです。
小原啓渡