「創造とは何か」をテーマに、様々なジャンルで活躍されているアーティストの方々にお話を伺っています。今回は「大駱駝艦(だいらくだかん)」を旗揚げ
し、舞踏に大仕掛けを用いた圧倒的スペクタクル性の強い様式を導入、演劇界、舞台芸術の分野でも先駆的な地位を確立している麿
赤兒さんにお話を伺いました。
小原
麿さんにとって、作品を創る上で創造エネルギーの源泉のようなものは何なんでしょうか?
麿 赤兒
最近思うに、それは一種の無意識の欲望みたいなものではないかと。身体一つでどこまでやれるかというのがまずあるんですが、そこで無意識の欲望を震わせ
ることで身体を通して何かが出てくるというか。そういう事に尽きるんではないかと思っているんですよ。
小原
無意識の欲望を振るわせるという部分を、もう少し具体的にお話し願えますか?
麿 赤兒
ある意味、身体というものが一番大変な作品じゃないかと思うんですね。身体は創られてきたものなんだと。空気を吸ったり、飯を食ったり、20年生きてき
たなら20年というそれなりの時間をかけて創られてきたわけですよ。骨格、肉づき、しわの一本にも、あるいは腰が曲がってるとかもそうなんですけれども、
それらは、外の世界からの影響を受けて出来ているというか、身体それ自体が一つの受容体というかな。だからすでにあらゆるものが身体にはあるんですよね。
今まで無意識に生きてしまっているのに、いつの間にか身体に積み重なって来ているものがあるんじゃないかと思うんです。それは太陽が皆に等しく光を与えて
いるように、皆に公平に与えられていると。そこに僕の初発の意識みたいなものがあるんですよ。
小原
では、その身体から無意識の世界を引っ張り出してくるというか、それにコネクトする為には、どうすればいいのでしょうか?
麿 赤兒
それは、板間に立って身体と対話するというかな。言葉じゃないんだけど。僕は、演技も踊りも見せ物には代わりは無いとは言っているんですが、やはり少し
違いがあって、身体表現には一応手続きが要らないというか……。最初は、そこにつっ立ってろとか、寝っ転がってろとか、そういうところから始まるんです。
だからむしろ下手に頭や言葉で考えるとろくなものは出てこないじゃないかと思うんです。
小原
身体がチャンネルようなもので、それを通して無意識の世界とコネクトするということでしょうか?
麿 赤兒
そうですね。身体の中に全て含まれていると思うんです。だから後は、様々な社会の制約の中で、身体を突き動かす無意識的な何かをどう自分の身体に正直に
受け止めていくか。というのは、社会の中での我々の日々の行為、例えばモノを持つということは、擬似的、原則的な動きじゃないかと思うんですね。
小原
モノを持つ事で身体は何かしら機能的に既定されているということでしょうか?
麿 赤兒
そうですね。身体はモノに機能的に既定されていると思うんです。そこでモノに既定される以前は、どうだったんだろうかと考えてみる。石器時代に、人類
が、石を持った途端にすごい変わり方をしたと思うんですね。石が武器になったり、あるいは木の実を砕く道具になったり、そういう用途を得ていくんだけれど
も、それと同時に捨てた何かっていうのがあるのではないか。石を持った、手を使うということを所有した、そういうことによって、何か無意識に捨ててしまっ
たと思うんだよ。モノを持つという欲望も無意識的だと思うんだけど、捨てたっていう事もすごく無意識的だと思うんだよね。そこで、自分を持続していくため
に、さらにでたらめな発想をしてみるんです。では、その捨てた事ってなんだろう。何で二本足で立たなくちゃいけないんだ、四つんばいの方が良かったんじゃ
ないかとか。四つんばいということを捨ててしまった事で、四つんばいの視線で見えてた何かがどこかに行ってしまったのではないかとか。モノを掴んだという
喜びで現代まで来ているわけだけれども、やっぱりそれはモノに既定されてるって事ではないかと思うんです。それは非常に当たり前で原則的な行為ではあるけ
れども、どこか擬似的なんではないかと思うんです。
小原
得ることによって捨ててきたものが無意識の中におそらく残って、蓄積されているんだろうと。そういうものが身体を通して出していく、それが身体表現とい
うことでしょうか?
麿 赤兒
もう一度、何も持たない、何も所有しないという立場に身体を置いてみて、そこから何か出てくるものはないだろうかという事をしてみる。そこには一種の身
体というものの遊戯性もまた出てきたりすると思います。
小原
では最後に、麿さんにとって、あえて一言でいうなら「創造」とは。
麿 赤兒
創造しないこと。しないという創造。すでに身体という立派な創造物があるじゃないかということですね。
小原
本日は有難うございました。
P.A.N.通信 Vol.52 掲載