アーティストインタビュー
茂山 あきら (狂言師)
茂山あきら プロフィール |
「創造とは何か」をテーマに、様々なジャンルで活躍されているアーティストの方々にお話を伺っています。
今回は、大蔵流狂言師、京都能楽会理事で、1981年に「NOHO(能法)劇団」を組織、国内、海外での上演など多彩な演劇活動を展開、その他オペラ、演
劇、パフォーマンスなどの企画・構成・演出を手がける茂山あきらさんにお話を伺いました。
小原
最近、特に茂山家は斬新な企画をどんどん打ち出しておられますよね。一般的に狂言というと古典=伝統というイメージが強いと思うんですが、その辺りの視
点から創造についてどのように考えておられるのかお聞かせ下さい。
小原
狂言の場合、型という一つのフォームが固定されたものとしてあると思うんですが?
小原
創造的というのは、ゼロから生み出すものではないという事でしょうか?
茂山
ゼロからの創造って、有るようで無いんですね。必ず人間には歴史があって、創造にも歴史がある。つまり創造するということは実は何かなぞらえていなが
ら、ある部分を少し変えたり、膨らましたり、凹ましたりとか、その程度なんですね。結局前を引きずってるんです。
だから僕は意識的に変えてない、でも変わるんです。変えざるを得ない。なぜならそれはお客さんに観ていただくからなんですね。観客が求めるものに応えて
いく。こちらが一歩先行する場合もあるし、逆に押し出される場合もある。
小原
オリジナリティーについてはどのようにお考えですか?
茂山
それは体格の違いによって演技の仕方が変わってくるように、どうしても個人的な事に還ってしまいますね。でもその方法論を考えるという思考方法自体全て
が、私の場合だと京都という部分に繋がってると思うわけね。そこに創造の原点があるのではないかと思います。
小原
その"創造の原点"というのをもう少し具体的にお伺いしたいのですが。
茂山
文化というのは基本的に、ある時間軸でずっと流れ続けるもので、だから人間が知性を持った瞬間に文化は始まっている。文化ってどこの国でも最初は神のた
めにやられていた訳ですね。
日本の場合それは、神道、八百万(よろず)の神なんです。キリスト教やユダヤ教のような一神教と違い、結局どこにも寄りどころのない、ある意味自己しか
信用できない。それは個に帰結しちゃう。これは人間賛歌だと思うんですけど、そういう考え方があって、そこから続く継続性みたいなものが今の日本的な物に
融合されている部分があると思う。
ものの考え方というのは全て文化的な起こりで、住む土地に根ざしているわけですね。ですから私の場合は日本的、もう少し細かい部分を見たら京都的なんで
すね。
それが東京だろうがニューヨークだろうが、一旦住んだら、その土地や空気ってのは途端に影響しちゃうんです。要するに、土地というか、生活、あるいは生
きているとかそういうことから、全てのもの造りは始まってしまうと思っているんです。
小原
より創造的であるためにどういう事が必要なんでしょうか?
茂山
一つのテクニックとしてね、例えばたくさん創造しようと思ったら、一度瞬間立ち止まってみる。動きをゼロにすることで周りが見えてくるから。ずっと流れ
てるから変わってないように今は思うんですよ。立ち止まってみると後ろも前の遠くの景色も見られる。そうすると自分はどの方向が好きなのかとか、やりやす
そうだとかが見えてくる。そのやりやすそうな方向に進んでいけば、可能性としては大きいと思いますね。
小原
では最後に、"創造"とはあえて一言で言うなら何でしょうか?
茂山
"創造とは変わる事だ"。私はそう思います。過去を否定してもいいし、しなくてもいい。ただ変わらなければいけない。創造というものは、その人間の中身
の一つですから、それは変わるはずです。生きている事が創造ですから。実はみんなやっていることだと思う。
P.A.N.通信 Vol.56に掲載